権力は暴力/ネット記事/縦槍ごめんね

http://www.sankei.com/smp/entertainments/news/170726/ent1707260012-s1.html

昨日、ミヤネ屋の最中に謝罪が行われてましたね。正直浅野もでてこないし、なんかふわっとした謝罪で視聴者の芯を食ってない感じでしたが。まぁ、この問題はミヤネ屋側に問題があるわけで、高須社長の怒りももっともで、そんなことより思ったのが権力を持った人間を敵にまわすのって想像を絶するほど怖いということ。

普通だったらこれは表沙汰にならずに、スポンサーを降りられるかとか訴訟を起こされるとかしてたんだろうけど、高須社長はtwitterで自らの怒りを自分の手で発信している。これは、売られた喧嘩を買ってる感じでとても感情的に見えた。

そして、結果は見ての通り。ミヤネ屋の完全敗北。権力者に楯突くとボッコボコにされんぞ、っていうのをまざまざと見せつけられた。高須社長はこう矢面にたって戦争するから面白いし危険だ。でも世の中の上の方々はもっとヤバイやつらもいると思うと下にいる方が幸せかも。

いやあ怖い怖い/ネット記事/やきさば

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170727-00181503-toyo-bus_all&p=3

 

自撮りをする人の特徴についてかかれた記事。いや〜こわいこわい。自撮りするだけでこんなこと言われなあかんの?みんなこんなに賞賛欲求もって自撮りしてないと思うけど。

てか自撮り写真を見て、新聞記事にあるように、「こいつ馬鹿じゃない?はい自己愛乙乙〜〜」ってディスる人も愚かだと思うけどなあ。

 

自分を可愛く見せたいのは、ほとんどみんなにある気持ちだと思うし、それをSNSに全力で推し出すのは、別に罪なことでもなんでもない。むしろ素直で可愛いと思うんだけど。

 

SNSだから自分の好きなものでも自撮りでもなんでも載せて良いって考え方か、みんなが見るSNSなんだから、ある程度限度があるって考え方が、どっちかにわかれてくるよね。勝手にしてやれよって思うし、むしろ自撮りしてる子可愛くて羨ましい〜って感じ。

 

ま、わたしは自撮りせんとこ……。

 

 

到達点/ネット記事/手汗王

http://www.yukawanet.com/51097/archives/5242376.html

えげつない、、、トップボディビルダーでもここまで極限の絞りができる人はそういない。段違いなバスキュラリティである。少し細めの足ではあるが、ここまで絞れていればベストボディで入賞はできるだろう。

人間はより強い部位ほどカットやバスキュラリティが出やすいと言われているため、ツールドフランスの選手は相当に脚が強いということになる。腕からも考えるに、この選手は体脂肪率もかなり低い。どんな競技でも極限まで極めるとその人の姿は、人類の到達点に近づくように感じる。かっこいい。

トレーニングに理由付けは必要ないが、強いて理由を付けなければいけないとすると、その一つに人類の到達点に立ちたいという願望がある。これは漫画「テラフォーマーズ」のマーズランキング1位、ジョセフGニュートンを見てとても感化されたのであるが、結局は様々な能力を引き出す上で能力の限界は筋肉で決まっているだろう。どんなスポーツ選手も筋トレは怠らないし、強ければ強い奴らほど、凄いトレーニングをしている。ラグビーニュージーランド代表、オールブラックスのトレーニング動画をみたが、自分がいかに底辺で争っているかを思い知らされる。自分の肉体に満足できた時、それはきっと人類の到達点に立つ時なのだろう。到達が先か死ぬのが先かの勝負だ。人類の到達点というと、もう一つ面白いものがあった。

http://tocana.jp/i/2017/07/post_13852_entry.html

人工知能を駆使して最強のソルジャーをつくることができるそうだ。世界がmarvel化してきている笑。これは、男なら誰もが通る道の一つ。スーパーヒーロー方面の人類の到達点だろう。超能力、超感覚をもった兵士など、キャプテンアメリカしか思い浮かばない。なれるなら一度はなってみたいものだ。筋トレを続けていればスーパーヒーローになれるのではないかとすら思っている。人間の進化は、どちらに進んでいくのだろうか。肉体的進化を遂げるのか。科学的進化を遂げるのか。二項対立、二者択一式の進化の方向に見えるかもしれないが、先にも述べたmarvelヒーローたちは、両方を追うことで人類に到達点を見せてくれているようにも見える。二兎を追うことで二兎を得ることもあるのかもしれない。

最強の人間になりたい

横綱とは、相撲とは/ネット記事/生まれてきてごめん

みなさんは相撲を見たことがあるだろうか。日本の国技である相撲は格闘技でありながら、他のスポーツ格闘技とは一線を画す。それはなにより、相撲が国技であり、「神事」であるからである。そんな神聖な土俵で戦う力士たちの頂点に君臨するのが横綱である。この間知ったのだが、横綱は現人神であり、番付の上では人間ではない。人間で最も強いのが大関、横綱はそれ以上の存在なのだ。そのため横綱の相撲には「美しさ」が求められる。「美しい」相撲とは、相手力士の当たりを正面から受け止め、乱暴な張り手やかち上げをせず真っ向勝負で勝つ、というものらしいのだが、私はどうも納得がいかない。それが次の記事だ。

https://www.nikkansports.com/m/battle/sumo/news/1861111_m.html?mode=all

この記事を見て感じることは、形式美としての相撲が重宝されるがあまり、本来あるべき武術としての相撲が見れなくなってしまうのではないかという不安と苛立ちである。

歴史に残る最古の相撲の取り組みの結果は、片方の力士がもう片方の力士腰の骨を踏み潰して勝利した。無論、腰の骨を折られた力士は死んでしまった訳だが、この結果に疑問をもつ人もいるだろう。立ったままどうやって腰の骨を折ったんだ?という疑問である。それに対する回答はいたって簡単だ。当時の相撲は手、膝をついても負けではなかった。負けの条件は、相手を戦闘不能にすること、早い話殺した方の勝ちということだ。つまり、格闘技としての相撲というものは、本来死と隣り合わせのものであり、その最中に形式にこだわっていられる余裕などないのだ。

今のような興業相撲が始まったのは江戸時代からだが、当時の力士にも、爪の先を尖らせて相手の肉に食い込ませるという戦法を使う力士がいた。もちろん、そんな姑息で手荒な真似を褒めるようなことはできないが、そこまでしてでも勝たなければいけない、ヒリヒリするような勝負が当時の土俵にはあったのだ。形式にこだわっていては見られない勝負があるのではないかと私は思う。

ジモティーだから/ネット記事/YDK

https://www.google.co.jp/amp/s/news.biglobe.ne.jp/smart/amp/economy/0726/kyo_170726_7685249387.html
不二越会長、HPで発言を謝罪 「富山出身採らない」

はい。これ最近話題になったやつです。富山出身の人が会長をやってる富山の会社で、富山県出身は採用しない…!と声高々におっしゃっていた件ですね。

でもねぇ、気持ちはわかるんですよ。正直なところ富山県の人って変に生真面目な人が多いのは事実だと思うし、特にずーっと富山にいる人なんていうのは凄く視野が狭い。それはそれでもちろん幸せなんでしょうけど、関東から富山に引っ越したりすると、きっとそこそこの疎外感みたいなものは感じたりするんじゃないでしょうか(関東出身の母談)ご近所意識がやたら高いのも田舎あるあるなんでしょうね。

だからって一企業の会長のこういう発言を容認したくはないですけども。じゃああなたはどうなんですか?って感じだし、そもそもこういう発言を公ですること自体が、視野狭くない?ってなるし、変に富山出身の評価だけ下げるのはやめていただきたいな、というところですね。(就活が近づいてきて怯えている)

はーぁ、就活やだなぁ。

ちなみに会長を擁護(?)する記事も上がっていたので是非参考までに。富山出身じゃないだろお前、と思ったのは黙っておきます。
http://diamond.jp/articles/-/136200?page=2

鳩と冒険/ネット記事/θn

「ヨーカ堂、「ハトマーク」でも浮上しない業績」ー東洋経済オンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170722-00181435-toyo-bus_all&p=1

 正直な話をすると、もちろんその背景にある様々なことは置いておいて、このデザインへの回帰はとっても嬉しい。鳩のマーク。すごくすごく好きだった。あっあんなところにもヨーカドーがって、全然知らない街でもわかる。イオンじゃだめ。もっとシンプル、何も考えなくていいからヨーカドーの鳩。あの看板。何処にいたって変わらないシンボルがあるなんて素敵だ。

 今思えば全然遠くないんだけど、家から自転車でちょっと行ったところに「鳩のマークのお店」があった。小さい頃の私からすれば、自転車に乗ってる時間が長い場所は「とおいところ」。電車やバスに乗って行くところよりも、なんなら遠いと思っていた。子どもの距離感なんてそんなもん。

最近業績不振だったのか、そうか。と感じた。なんだか実感がわかないけど、確かに言われてみればそうだ。そもそもセブンなんちゃらなんちゃらーの看板を見てしまうと、じゃあセブンイレブンで、っていうかコンビニでいいのでは?みたいな気持ちになる。一度思ったら生活って変えられない。生命線にでもならない限り、わざわざああいう大型スーパーにいく理由ってもしかしたら無いのかもしれない。それは私が学生だからかもしれないけど。

なんだろうな、さすがになくならないとは思うのよ。世の中から何かが消えるって、結構ハードルが高い。ピザポテトも復活したし。でもなんかこう、あの、あの「とおいところ」が過去の遺物みたいに扱われるのはショックでかい。どうしても変わっていく何かを突きつけられているような。

小学校になってからだったけど、伝説のポケモンをもらいにいった。映画の前売り券を買って、それを引き換えできるお店にゲーム機と一緒に持って行かなければいけなかった。母親にごねて連れて行ってもらった気がする。鳩のマークはちょっとした冒険の先にある。自分の住んでいる場所がどこまでも、どこにでもつながっていくような。子どもの目線と、素直な希望と、それをどことなく懐かしんでしまう自分と。走馬灯みたいなニュースだ。

産休問題/ネット記事/あおいろ

<女性議員の産休>公表で批判続々 前例少なく制度整備遅れ

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170723-00000032-mai-soci

 

 

何も考えずに見出しだけ読んだとき、また女性議員が理不尽なバッシングを受けているのかと思ったが、そうではないらしい。

議員は選挙で選ばれた国民の代表としてその責任をきちんと果たさなくてはならないため、議会を休んではいけないと考える人がいるらしい。らしい、というか確かにその考え自体は正しいと思います。
でもなんか違和感があるんですよね。国全体の方向性として女性の社会進出とか、産休育休取得を促したりとかしてるのに、肝心の国会で産休の制度すら確立されてないのってすごい矛盾じゃないですか。前例少ないとか言わずに、なら法整備をさっさとしないとじゃないですか?って思ってしまう。

あと、言ってる内容は正しいとしてももう少し別の言い方があるだろうって思います。一部分だけ切り取られているから文脈が分からないけれど「これだから女性議員は」って女性であることが悪みたいな言い方はひどい。
記事の最後に乗せられている鈴木区議への批判も、つまり子どもは産んで欲しいけど議会は休むなと。分かるけど物理的にそれは無理だ。

記事の途中に出てくる、議会に代理人を立てるのが良いのかなと思いましたが、選挙で選ばれてない人が出席するというのも違和感がある。議員さんの産休問題は一般の会社より難しいんだなぁと知ることが出来る記事でした。
産みたいし働きたいっていう前向きな気持ちから産休育休をとるのではなく、働くことが義務でありそれがおろそかになりそうだとバッシングを受けてしまうなんて、自分には議員は無理ですね。なるつもりないけど。
でも一般の会社も、産休とって仕事に復帰できない可能性を考えて会社辞めてしまう女性も多いのか。うーんなんか問題多すぎませんか。

ちなみにどうでもいいですが、自分はまず結婚できるのか自体若干の不安があり、我が子は別というけれど子どもが苦手なため、出産とか遠い世界の話すぎてあまり現実味がありません。

言いたいこと言いたいこと/ネット記事/温帯魚

さてはて、本題に入る前にまずはこのゲームレビューを読んでほしい。内容としてはインターネットに記事をあげるウェブメディアを体験するシミュレーションゲームについて、その過程と構造の現実との奇妙な一致を論じている。なに、読むのにそう時間がかかる文章ではないし、意見として非常に面白いものだから是非。どうせスタジオのどの文より面白いし。

読んだ?それでは本題に入ろう。

 

政治と宗教と野球の応援チーム(だっけ?最後があっているかうろ覚え)についての話を友人としてはいけないという教訓からはいくつもの真実が含まれている。一つ。それらは友情とは別の次元で動いている。友情パワーではどうにもならないことが世の中には多い。一つ。それらの考えが違うからと言って友人になれないなんてことは無い。結構大きな思想の違いがあるからと言って、じゃあ話が通じないかというとそんなことなかったりする。一つ。そんなクソつまらない話しかできないような間柄を、世間では友人とは言わない。もっとましな話ができるようになってから出直してこい。

何てことを書けるのはそもそも僕に友人がいないからだけれど(もちろんだからと言って上記の三つが話せる知人がいるわけでもない。大体の日常において僕は誰とも話せない。寂しい)、そんな現実ではまるでない話がSNSでは一杯転がっている。政治について、ジェンダーについて、中日がヤクルトに10点差を覆された糞試合について(いや最後は割と笑える)。君たちそんなに友達いないの?なんて話ではないんだけれど、別に君が何を主張していてもいいんだけど、もちろんその三つが話せない世間のほうがおかしいとかそういう意見もわかんないわけじゃないんだけど、そうじゃないんだ。僕が言いたいのはそうじゃない。

君たちそれ本当に伝えようとしてる?そのクソつまらない文章で?本気で?

 

“ネットで公に何かを発言することは、だれかの自己表現の踏み台やソースになりにいくことだよ。”なんて、僕の好きな詩人の最果タヒさんはこんなことを言っている。もちろんミーム論を引用する必要もなく、完全に思考を伝えることなんてできるはずもない。ネットで会話するなんてことは夢物語なのかもしれないし。

だからってその文はあまりにもお粗末だ。Nioh君、あるいは先週の文章を書いたみかん君。その他大勢もろもろも含めて、君のことを言っているんだけど、気づいている?思想にしろ比喩にしろ癖にしろ、その何一つ惹かれない文章で本当に読んでもらえると思っているの?読者のことを一切考えてないことが露骨に透けて見えるその文章で(露骨に透けるって重複表現かな。まあそんなことも置いといて)?そんな記事がネットにはごろごろ転がっていて、僕はそれを見るたびげんなりとなる。

 

冒頭にあげたレビューを引用するならば、SNSにしろ何にしろ会話というものはもうできないのかもしれない。違う考え方を持つ人と会話するのはひどく苦痛で、そして努力と工夫がいるものだ。アプローチも、口調も、ユーモアも。それが双方向でないならば余計に。だとするならば同じ考えをしている人を待つのが一番楽なのだろう。おめでとう!君はゲームをクリアした!キミノ世界は平和になりました、なんて。でも僕は面白い文が読みたいし、伝えてくれる人が欲しいし、自分もそうなりたいんだ。変えてほしいし、なにより人を変えてみたい。

 

こんなことを考えているから僕は友達ができないのだろう、なんて現実逃避をしながら。それではアリバイとして適当に記事を載せよう。見なくていいよ。僕も読んでないし。

https://mainichi.jp/articles/20170726/k00/00m/040/185000c

複雑で単純な回り道/ネット記事/Gioru

『「自分のことがわからない」ときに「自分ひとりで考えこむ」と「胃液」しか出てこない理由!?(中原淳)』

https://news.yahoo.co.jp/byline/nakaharajun/20170725-00073690/

結局、自分のことはいくら自分で考えてもわからないよねぇ。とは、何度も思うけれども、気が付いたら自分の中でグルグルしているのはよくあることのように思う。少し考えればそりゃわかるんですよ。ひたすらに自分と向き合ってウンウンと考え込んでいる時間は、自分の中にあることでしか解決方法が見当たらないから、スッキリするような結果にはならないってことくらい。見つからないから同じところをグルグル回っているんだから。

だから別のことに集中してみたりする。なにかに追われてみたりする。レポートに追い込まれている時(特に留年とかに関係ありそうなやつ)は、逆に言うとそれしかその時は考えられないから、自分の中の何かと向き合う必要は無くなる。その時に限って言えばレポート内容が悩み事に直結していなければ逃げ出すことができているんですよね。別にレポートじゃなくたって、スポーツでも音楽でもゲームでもプログラミングでも読書でも、何かに没頭できている時は気持ち良いと思うんです。悩むなんて辛い思いはしなくても良くて、気が付いたら時間は過ぎていく素晴らしさ。

ただ、どんなことをしていても息詰まることはあって、結局悩みができてしまって止まってしまう。その度に別の何かに逃避して、思い出したころに戻ってきたりするんですよね。

 

最近、サークルの友達がインターンに取り組む際に自己分析カードみたいなものを書いているのを見た。自分で思う、自分のことについてざーっと書いて、それから、自分とそれほど親しくない人、とても親しい人、その中間くらいの人に、その人についてどう思っているか書いてもらうっていうやつ。それを見比べて、自分が思っている人間像と、他の人から見る「私」の人間像のギャップを確認して自己分析を深めるんだとか。

よくできているもんだな、とは思う。堂々巡りにならないように、他者からの視線を取り込んでいくのである。自分では納得できなくても、そう思われているというフィードバックが確かにそこにあって、取り合えずの解決策はもらえる。もし、そこから新たな自分を見つけだしたと「思い込んで」、思い込むことができたのならそれは素晴らしいのだと思う。迷うことがなくなって、熱中できるのだから強いのもうなずける、悩むなんて言う無駄な時間を別のことに使えるのだから。

 

こんな風に書いていると、一直線に何かをできるやつを、何か仕事に追われて脅迫されてるんじゃないかと思えるほど忙しそうにしているやつをなんだか羨ましく思う。別にそうなりたいとか思う訳ではないのだが、どうにも眩しいというか。

 

 

そういえば、何気なくしたことを感謝されて、わざわざお礼を言ってくれた子がいた。なんだかとても嬉しかったのを覚えている。

どうしようもなく単純で、馬鹿だなぁ、とはいつも思うのだけれど。思うのだけれどね。

ブログへのコメント

FC2ブログで「中国2018年に台湾侵略との予測」というタイトルの文章を書いていた。このブログを見ていきたいと思う

中国の台湾への武力侵略は、実際に発生し得るのか。日本では北朝鮮危機への警戒心は高いが、台湾海峡危機に関しては、あまり話題にも上らない。しかし中国は「武力行使は辞さない」と繰り返し強調して来たし、実際に中国の歯止めのかからぬ軍拡は、主に台湾攻略を視野に入れたものである以上、やる時はやるものだと覚悟しておくべきである。

それでは、その台湾侵略はいつ発動されるのか。台湾紙中国時報は七月二十日、「それは二〇一八年後半だ」とする予測を紹介している。

予測主は元AP通信台北支局主任のピーター・エナブ氏。それによれば、中国の台湾への武力発動の三条件が、二〇一八年にはすべて満たされるという。

その三条件とは次のようなものだ。

一、中国の政治的影響力の台湾への侵入が無効であると確定されること。

二、中国軍の台湾海峡横断への妨げがなく、台湾の抵抗を鎮圧する力を具備すること。

三、国際社会の政治的妨害による不利益が台湾占領による利益を下回ること。

私なりに中国側が武力をもって台湾問題を解決しようとしている理由二つにまとめて紹介したいと思う。

一、当初中国は平和統一(※協議による台湾併呑)の可能性が最も高いのが国民党の馬英九政権時代だと見ていたが、その夢は二〇一三年のヒマワリ(太陽花)運動で徹底的に引き裂かれ、二〇一六年の民進党の蔡英文政権の発足で、平和統一の可能性はほとんどなくなり、国民党を使った経済統一も達成が困難になったと中国は見ている。二〇二〇年に民進党政権が徹底的にひっくり返っても、平和統一の可能性がほぼ消えたという事実に変化は及ぼされない。すでに中国には台湾の民主政治の進展を食い止めることはできなくなっている。

二、ニューヨークタイムズは「ここ十年来の中国経済の発展により、西側諸国はどんどん中国に接近している。もし中国が台湾を侵略した場合、日本や西側諸国がどう反応するかは米国次第だ。日本は米国と同一歩調を取り、台湾はそれを唯一の頼み綱とするだろう。しかし米国政府内部では、確かに多くは台湾支持だが、しかしトランプ大統領は史上最も親中的な大統領であり、民主主義の価値観に関心などない。中国の武力発動が決定されるか否かは、今秋の党大会、あるいは二〇二〇年の台湾で政権交代が行われるか否かによるが、やはり最終的にはトランプ勢力が安定しているか否かによるだろう。