サングリア/はな/リョウコ

扉を開けると、ずぶ濡れの女が立っていた。ゆるいウェーブのかかた品の良い赤茶色の髪の毛が、べたべたと汚らしく女の肌に貼りついている。
「一杯飲ませていただけませんか」
クローズの時間だったが、私は女を店に迎え入れた。
グラスも氷もほとんど仕舞ってしまったし……お酒の種類もそんなに沢山はございません。それでも宜しければ。
「かまいません。酔えるなら、なんでも」
奥からタオルと、赤い酒の入ったグラスとを持って戻ってくると、女はカウンターの右から三番目の席に俯いて座っていた。
どうぞ、サングリアです。
「ありがとう」
掠れた、細い声だった。女の枯れ木のような細い指が、照明を受けて輝く美しい赤に纏わりつく。
「これは……果実酒かしら」
はい。赤ワインにフルーツを漬けたものです。
「薔薇の香りがするわ」
香り付けです。そのままだと呑みづらいので。
「そう」
女は疑う素振りも見せず二口目を口に含んだ。
お酒はあまり飲まれないのですか。
「ええ、主人は好きだったけれど」
主人は、ともう一度繰り返し、女は静かに涙を流した。
好きだった?
「ひと月前から行方知れずなの。警察に届けを出したのだけど、まだ見つからなくて」
それはお辛かったことでしょう。
女の削げ落ちた薔薇色の頬、鎖骨の浮いた首、マニキュアの剥がれかけた爪を見た。可哀そうに。不思議とすんなり声が出た。
「寝酒はよくないと分かっているけれど……どうしても眠りたくて」
「何か話して下さる?黙って食事をするの、昔から苦手なのよ」
そうですね、ではこんな話はいかがでしょう。
難破し無人島に漂着し、長い間行方知れずだった男が生還した。その男がある日、海の側のレストランでウミガメのスープを注文した。スープを飲んだ男は、ウェイトレスを呼び、尋ねる。このスープは本当にウミガメのスープですか。ウェイトレスはそうだと答えた。その日、男は自ら命を絶った。さて、どうしてでしょうか。
「うーん、どうしてかしら。男が死んだのは、ウミガメのスープが原因?」
ええ。
「無人島から帰ってきた、というのは何か関係があるかしら」
そこが重要です。
「無人島から帰ってきて、わざわざレストランにでかけたのよね。ウミガメのスープを飲みに」
はい。
女は少し考えて、降参の息で笑った。
「あまりに美味しく無かったから、という理由で死ぬのはおかしいかしら」
正解です。
「え?」
自ら命を絶った理由は、ウミガメのスープが美味しくなかったから。いいえ、想像していた味とあまりに違ったから。
「腑に落ちないわ。どういうこと?」
その男は以前にもウミガメを食べたことがあった。その味とレストランで食べたウミガメのスープの味があまりに違った。男はそこである事に気付き、自殺した。
「あることって?」
男は、無人島で、ウミガメを食べていたのです。
「無人島?」
無人島で、少し前までいっしょに船に乗っていたウミガメ。
「その、ウミガメって……」
この問題、答えはないんです。色々な解釈があって。
「でも、これがきっと正解でしょうね」
どうして?
「だってもし……もし近しい人。そうね、例えば我が子とか、恋人とか。そういう大事な人を自分が食べていたとしたら……私、きっとおかしくなってしまうわ」
そうでしょうか。
「違う?」
近しい、大切な人と、少しだけだけれど同じ身体に成れたのに、死ぬだなんて勿体無いです。
「……考え方はそれぞれだものね」
女は俯いて、グラスの中のどろりとした赤をぼうっと見つめていた。酔いが回ってきたらしい。
私もお酒、頂いても?もう閉店なの。
「あら、ごめんなさい。どうぞ」
女が差し出した白いバスタオルを受け取って、グラスを片手に店の奥へ進む。そのまま裏口から店を出て、脇の階段を上がり、二階の自宅へ、そしてまた奥へ、浴室へ。
扉を開けると、強い薔薇とアルコールの香りが身体に纏わり付いた。浴槽の中の赤をグラスに掬う。
水面に浮いていた黒い毛を、指先でつまんで取り出す。私はそれを、そっと指先ごと口に含んで、咀嚼した。


 

 

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「サングリア/はな/リョウコ」への1件のフィードバック

  1. 乱歩のような生ぬるい気持ち悪さが出ていて個人的にとても好きと思った。
    マスターのセリフを通常文に落とし込んでいるのも演出として良い。
    文字数が少ないので、物語の背景がわからないのがもったいない。

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