窓鴉/はな/五目いなり

寝台の上の花瓶に活けられた花の花弁がひらりと落ちて、その香りにレノアは目を覚ました。窓に掛った薄いレースのカーテンが、ふわりと揺れる。天蓋付きのベッドに横たわっていたレノアは眠っていた両目を擦り、不審に思って起き上がった。

寝る前に、窓を閉めた筈なのに。

まだ月が出始めたばかりの頃に、メイドの一人が几帳面に窓を閉めていったことを、レノアは確かに覚えていた。変だわ、何で窓が開いているのかしら。吹きこむ筈のない風が、開いた窓からレノアの頬を優しく撫ぜてゆく。ブロンドの長い髪が、風に揺れる。

そういえば、風なんて感じたのは何時以来になるのだろう。外どころか、自分の部屋から出た記憶は、レノアには殆どなかった。弱い体を気遣って、窓すら開けさせてもらえなかった記憶は、沢山あるのに。

今日はもう、このまま眠ってしまおうかしら。

程良く冷たい風が心地よくて、レノアは立ち上がるために伸ばしかけた足を、ベッドの中に戻した。夜風は身体に障るから、と厳しく戸締りを確認するメイドに怒られるのは面倒だったが、それでもレノアは窓を閉めなかった。どうせ貧弱な身体なのだ。病気になるのなら、好きなことをして病気になりたい。

捲りかけたベッドのシーツを顔まで引っ張り、埋もれる様に目を瞑った。いつもはカーテンに遮られて入ってこない月の明かりが、瞼の裏まで届いている。これなら安心して眠れそうだ。さらさらと穏やかな風の音を聞きながら、レノアは再び、うとうととまどろんだ。

病弱で、人見知りで、弱い自分。外にも出なければ、誰かと出会うことも殆どない。この間あったあの男の人の名は、一体何といっただろう。レノアは夢と現実の狭間で、ふとそんなことを思い出した。私を美しいと言ってくれたあの人に、もう一度会える日は来るのかしら。レノア。自分の名前を、呼んでくれる日が。

ああ、寂しい。

夢の隅でそんな言葉が頭に浮かび、突然部屋に、一際強く風が吹き込んだ。かたん、寝台の花瓶が倒れ、大の上をとうとうと水が流れる。ぶわり、風は長く繊細なブロンドや身体を包むシーツをレノアの身体から引きはがし、そしてぴたりと止んだ。

はっと目を覚ましたレノアは、夢と現実の判断もつかないまま起き上がって、窓を見た。

開け放たれた窓の傍に、影がある。大きな影は、バタバタと羽ばたきの音を響かせながら、部屋の中へと飛び込んできた。影は空中を滑って寝台の傍までやってくると、三又になった趾でシーツを掴む様に、レノアの横に舞いおりた。鴉だった。

夜の闇の様に深い色をしたその鴉に、レノアの寂しさは和らいだ。漂う気品と厳めしさに、幻想的なものさえ感じさせる。恐ろしい筈の不吉の印も、今はただ、美しい。

「ねえ、貴方。名前は、なんていうの?」

レノアはその厳めしい顔の烏に指を伸ばし、問いかけた。鴉は答えない。鴉の頭を撫でてやると、があ、と鳴いた。嘴の隙間から洩れる低い声が、自分の名前を呼んでいる様な気がした。名前を呼んでもらえるような、そんな気がした。

「言ってごらん、レノア」

鴉はがあ、と鳴いた。レノアが笑うと、鴉は微かに首を傾げてから、ネ、ネ、アと、鳴いた。

「ふふ、上手いわね。もう一回。レ・ノ・ア」

「ネ……モ、ア」

「その調子。レ・ノ・ア」

「レヴ……ア」

「うーん……少し、貴方には難しいかしらね」

レノアは鴉が自分の名を口にできないことを悟ると、もう一度その頭を撫でてやった。鴉は覚えたての音を使って鳴いたが、大凡人の言葉にはなっていない。レノアは烏の頭を撫でながら、開け放たれた窓に視線をやった。

「ねえ、貴方なら分かるかしら」

鴉は首を傾げた。人の言葉は話せなくても理解は出来るのだと、そう思いたかった。

「貴方のいた外の世界は、どんなところ?空は青くて、水は冷たかった?」

鴉になにを言っているんだろう。レノアはそう思いながらも、言葉を紡ぐのを止めることが出来なかった。鴉に向けた言葉は、闇に消える小さな星の様に、すうと染み込んで見えなくなる。それが心地いいのだ。

レノアは倒れた花瓶から花を抜き取り、花弁に触れた。触れたところからまるで魔法が切れた様に、花弁はひらりと落ちていった。白いシーツに、真っ赤な花弁が散ってゆく。レノアは裸になった花の茎を花瓶に戻して、もう一度カラスを撫でた。

「花は枯れるから綺麗だなんていうけれど、私はこんなところで枯れたくないわ。摘み取られて、水に挿されて、挙句こんな風に毟られて……まるで花じゃない様に枯れていくなんて。ねえ、貴方はどう思う?」

鴉は一言も、レノアの問いに答えない。ただ黒い瞳で、レノアのことを見つめていた。

「私は一生、ここに居るのかな」

ぽつり。レノアの口から、言葉が漏れた。鴉は撫でられていた頭をもたげ、レノアを見上げた。まるで初めて、言葉が分かった赤子の様に、鴉はゆっくり首を傾げた。そして、嘴は開かれた。

レノア。

鴉の口から、音が漏れた。その音は、間違いなくレノアの名を呼んでいる。少なくとも、レノアにはそう聞こえた。

「私の名を、呼んでくれるの?」

レノア。鴉はまた、レノアに向かって嘴を開いた。それから大きく羽を広げ、振り返ることもせず、窓の外へと飛び出していった。シーツに残された赤い花弁が、部屋中に舞い散った。

外の世界へと飛び立っていったカラスを追って、レノアはベッドからするりと抜け出した。レノア。遠くで鴉の鳴く声がする。

なんだか、今なら飛べる様な気がするわ。

レノアは窓に、手を掛けた。重たい脚を窓枠に引っ掛けて、そのままゆっくりと下を向く。下は見えない。在るのは、星の飲みこまれた様な夜空の黒だけだ。月明かりに照らされたネグリジェの裾がふわりと舞い、まるで雲に包まれている様な気分になった。

私、もう寂しくないよね。

空に舞うカラスにそう問いかけながら、足を踏み出す。ネヴァーモア。鴉の声を聞きながら、レノアは闇の中に落ちていった。

 

エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)

大烏(The Raven)

 

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「窓鴉/はな/五目いなり」への4件のフィードバック

  1. 少し長いように思いましたが、選んだことばや、色の対比、花の描写がきれいだと感じました。悲しいクライマックスですが、それも美しかったです。

  2. 金縛りの時に見る心霊現象は全て現実によく似た夢を見ているだけ、という研究がある。病弱の人が夢うつつのまま窓から落ちた話で、実は鴉も妄想の産物でしかないのだろうな、などと思った。
    オマージュ形式故に仕方ないところもあるが、話の流れはあまり真新しいものではなかった。もう少し狂った感じが出ている方が好みといえば好み。

  3. ゆるい時間の流れと、狂気とが、合わさってすごく美しかった。ストーリーというよりは、そのゆったりとした美しさを楽しむものなのだろうなと思う。こういう感じの語り口も好き。
    シーンの作り方や情景描写はさすが五目いなりさんという感じで、私も何度も指摘されているから、見習わなければなと思った。

  4. 色遣いが対比的に使われていて場面想起がしやすく、幻想的な世界観に没入させるのに一役かっている。
    落ち行く花弁が自己狂乱的に窓から飛び込む最後と重なって、儚い美しさが表されている。
    また自分も山百合さんと同じような意見だが、レノアのもっと壊れたところがみたいと思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。