恋知らず/初恋/温帯魚

帰り道の夕暮れの様な照明の下では、人々がそれぞれのテーブルを囲んで思い思いに過ごしていた。中央のテーブルでは若い夫婦がメニューを楽しそうに眺めている。その隣のテーブルでは仲の良さそうな老夫婦が料理に舌鼓を打っていた。窓側のマダム達はワインを片手に歓談する。

私の前の席で顔をほんのりと赤くした彼女は、とろけたアーモンドのような目で私の目を見つめながらケラケラと唇を揺らす。

「ウイスタリア」

クラクラするほどの香りと共に彼女の指がワイングラスを撫でた。

「私にとって恋はウイスタリアなんですよ。」

 

 

 

三年前の話である。記者であった私はイタリアの田舎へと取材に出かけた。個人経営の仕事をしている女性を特集する記事のためだった。取材を受けてくれた彼女は卸売りを主とする交易商であり、私は彼女にいくつかの質問を重ねた。年は。生まれは、この職業を目指したきっかけは、子供のころの一番の思い出は。女性向けの記事にするつもりであったから仕事についてはあまり聞かず、その人となりを聴くことが多かった。想像していたよりもずっと若かった彼女は、少し突っ込んだ質問もすらすらと答えていった。

あらかた取材が終わったところで、彼女から食事に誘われた。記者という職業に興味があったらしい。彼女の友達が経営しているレストランへ行くことになった。

 

食事中に彼女は、私になぜ記者になったかを聴いてきた。

「昔からお世辞がうまかったんですよ。」慣れた答えを返す。

どんなものにも褒められる点があると僕は語った。それを一匙掬い取ることができればあとはいくらでも膨らましていけばいい。そうすれば見えなかった美点を読者はほめることができる。

必要なことは読者を善人にできる記事だ。

「恋多き男なんです、僕は。」

すると彼女は「プレイボーイですね。」と笑った後、私の目を見てこう言った。

「私ね、初恋ってしたことがないんです。」

ウイスタリア、と。

 

 

 

「私が初めてウイスタリアことを知ったのは幼稚園の時でした。お花屋さんに行ったときに。綺麗な女の人が丁寧に咲いていた藤の花を指さして、この花の色はね、ウイスタリアっていうんだよ、って教えてくれたんです。」

それはとても幻想的な光景で、だけど彼女は家に帰るとその色が思い出せなかったらしい。綺麗だったり濁っていたりする青色が浮かんでは消えたけど、どの色が女の人が教えてくれたウイスタリアかは遂にわからなかった。

「言葉を知っていても感覚にならないこと、っていうんでしょうか。それがあることに気づいちゃったんです。」

裏切られた気分ですよね。彼女は唇を濡らす。

「そしたら、それにどんどん引っ張られたんです。なんかよくわからないなーって思いながら、それでもいっか、みたいな。コイバナとかしても、好きとか嫌いとかあるけど、恋ってそんなにはっきりわかるものなの?ってずっと思っていましたし。」

自分が少し興奮していることに気付いて、彼女はバツが悪そうにはにかんだ。テーブルには計ったようにコーヒーとケーキが運ばれてきていた。

 

慣れた手つきでチョコムースにフォークを沈ませながら、彼女は聞いてきた

「記者さんにとって、恋ってどんなものなんですか。」

私はどう話すか少し考え、彼女にこう伝えた。学生時代を思い出してください。

「はい、思い出しました。」

妙に頭に浮かぶ奴がいませんか。

「はい、います。」

それです。

「え」

 

デザートのチョコムースは官能的な甘さだったから、これを恋と伝えたほうがそれらしい気もした。しかし彼女は目を丸くした後呟いた言葉は、私が思っていたよりずっと素直だった。

「そっかぁ。」

私は少し気恥ずかしくなっていた。しかし彼女はそれから微笑みを浮かべて、何かいいことがあったかのように呟き続けた。

「そっか。そっかぁ。」

 

 

 

彼女とはそれきりである。最近、風の知らせで彼女が結婚をしたことを知った。ただ、彼女はどんな初恋をしたのだろうか。そんなことを頭に思い浮かべながら、私は今日も誰かと出会っていく。

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「恋知らず/初恋/温帯魚」への3件のフィードバック

  1. 確かな描写で異国の風景が目の前に立ち上がってきた。世界観の強度が強く、最後まで物語の世界に浸ることができた。記者の言葉も冴えている。ウイスタリアの比喩も、きれいに恋というものの曖昧さ、不思議さ、よく分からなさという主題を浮かび上がらせていた。
    ただ、ちょっといろいろ気になってしまったのだけれど、「恋はウイスタリア」というのは「恋はよく分からないもの」というニュアンスでいいのだろうか。だとしたら、「学生時代を思い出して、頭に妙に残るやつ」が恋だとしてしまったら、そのせっかくのウイスタリアは失われて「恋」に収束されてしまうのだろうか。それとも、ウイスタリア的なよく分からない曖昧な物ごと「恋」なのか。あとは、学生時代限定なのかーい、とか。

  2. 異国情緒?みたいなものの描写がすごいよくできていて、一回目に読んだときは良い意味でその雰囲気だけで読み切ることができました。ただ、細かい接続詞の選び方とか句読点の入れ方でテンポを崩しちゃっているところが見受けられたので、そこはもったいないかなぁと。あと、チョコムースっていう言葉が個人的にじわじわきたというか、もっと雰囲気にはまるお洒落な響きの洋菓子があったのではと思います。

  3. 表現や回想の使われ方に限らず、文全体を覆う雰囲気作りが見事でした。記者という主人公の役割に違わず、あらゆるものから一歩引いた姿勢をとっている点は好評価です。ただ、細かな誤字等は再度チェックが必要ですね。ウイスタリアの色について、「綺麗だったり濁っていたり」とありましたが、ここは全体を支える印象的なシーンなだけに「澄んでいたり」の方が適切だったかもしれません。

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