リンゴガール/初恋/山百合

国語の授業は堂々と暇つぶしができるから好きだった。国語教師とは不思議なもので、あれほど魅力的な作品があるというのに、見事に退屈な作品ばかり選び取る。国語の授業で取り上げない作品を読むことで、授業に参加しているのだかしていないのだかよくわからない状況を続けていたある日、不可解な作品に当たった。

 

“まだあげ初めし前髪の…”

 

なんだこれは。作者は島崎藤村、この名は聞いたことがある。タイトルは「初恋」。有名作家の書いた名作、初恋ととっつきやすそうな題材のように見えて、しかしさっぱり意味が分からない。初恋、林檎、君と理解できる要素をくみ取って想像した話とも異なっているように見える。

今から思えばこの時代の文体に慣れていなかったこともあろうが、文章を読んで話の大枠すら捉えられないのは全くなかったとは言えないものの、かなり珍しい体験だった。

で、10年は経っただろうか現在、読み返してみた。困ったことに、正直まだよくわからない。読み込んでも文章の理解はできるのだが、これが何を言わんとしているのかが不明瞭なのだ。これは体験が不毛であることから来るのか、そもそも作品が難解なのか。だが、この詩が名作として、それこそ教科書に取り入れられるくらい受け入れられているという純然たる事実がある。

そこで、解説に力を借りることにした。今回引用したのは藤村の詩集、題字そのまま『藤村詩集』。「初恋」の詩も掲載された文庫である。藤村の詩集『若菜集』、『一葉舟』、『夏草』、『落梅集』の4冊をまとめたもので、なんと初版明治37年のもの。それが新潮文庫で昭和43年に発行された際の伊藤信吉氏の解説から引く。

 

“この詩のもう一つの特質は、それが純粋の抒情で成立っているところにある。純粋抒情詩の成立である。”

 

この詩の中心はあくまで慕情で、叙事的な記述はオマケに過ぎないようだ。

そこで解釈するのは、徹底した物語性の排除。この詩に記述されるのは一貫した物語ではない。それぞれの連で語ることの目的も異なっているように見える。相手の姿も終始はっきりしないままなのだから、別々の人物について述べたものだ、という解釈さえできなくもないほどである。

そして、考えてみれば恋愛ほど幾多の物語によって支配されている分野は他に無い。恋愛において、定式通りの振る舞いを避けることが果たしてできるだろうか。それどころか、恋愛に陥ることさえ物語の一部に取り込まれている気がしてならない。島崎藤村の描く、感情がただひたすら奔って行くような初恋が存在するのか、さらに存在を信じることができるだろうか。過剰に物語化された恋愛は、物語そのものを受け入れるかどうかの選択に変わってしまったようだ。

だとすると、毒された自分が今も昔も理解できないのは当然とも言える。それを超える情動があればまた話は変わってくるのかもしれないが…。

 

参考:島崎藤村『藤村詩集』(新潮社 1968)

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「リンゴガール/初恋/山百合」への3件のフィードバック

  1. 導入やまとめの雰囲気がある程度の固さをもたせつつも読みやすく、とっつきやすい印象を受けます。それに対して五段落めあたりから漢字が増えるせいか、読んでいる方として少し肩に力が入り何回か読み返してしまうところがありました。おそらくはスマートフォンという媒体から小さい画面でいっぱいに難し気に漢字が詰まっているのが原因なのでしょうが、文の見た目に空気感があると臆せずに読めるかと思いました。

  2. 既存の作品の話をしているときはやや重かったのですが、自身の恋愛への解釈はなるほどと得心されられる部分がありました。
    「なんだこれは。」と持ってきたのがやや唐突で、これなくても良いかなと感じたのですがどうなんでしょ。

  3. 初恋というテーマにおいて自分の恋愛の体験談をつらつらと書く人が多い中で、文学作品からのアプローチは見事だと思った。

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