下重暁子『家族という病』/書評/山百合

著者が、論じる過程の拙さは抜きにしても、一貫して主張しているのは、家族という枠組みが強要されることは良い結果につながるとは限らないので、一個人として自立し既存の枠組みではなくそれぞれの関係の深さを重視しよう、ということである。この信念が先んじているために、主観的な判断で様々なシチュエーションを判断していくのだろう。主張に根拠を持たせる場合、実例から読み取るべきなのに、実例に当てはめてしまっているのだが、著者の主張について論じるために論じる過程については一先ず置いておく。

この主張に対しまず考えられる反証は、関係性の深さの帰結として家族という形が選択される場合である。なぜこんな単純な発想が著者から出なかったのか。

そこで考えたのが、著者自身、家族という枠組みは否定しつつ他の枠組みを前提としてはいないか、という疑問である。初めに違和感が生じたのが、そこかしこに出てくる元服や地域コミュニティ等の日本の伝統という、それこそ幻想的な価値観である。そもそも、家族制度と個人との齟齬が日本固有の問題なのだろうか。この前提を不問としている時点で、旧来の枠組みの内家族制度のみを取り上げて批判しているに過ぎないと言える。個人主義というといかにもリベラルな響きを持つが、実際述べられているのは保守的な価値観に頼り切った主張である。

その最たるものは、関係性が不変であるという思い込みだ。第一章で著者は家庭内での不和は家族が親密であるべきという観念のために実際の関係性がないがしろにされて起こると述べている。だが、関係性が深すぎたために不和が起きたとも考えられる。個人個人の関係性を絶対視するなら確かに家族制度がやり玉に挙げられるだろうが、関係性は流動的である。個人として築かれた関係性の礼賛の実態は、関係性を担保するものを絶対視している時点で形式的な家族制度の礼賛と何ら変わりはない。

家族制度の変化に関連して、12月16日に夫婦同姓規定についての違憲訴訟に対する最高裁判決が下される。夫婦別姓に対し家族の絆が薄れるという批判がある。この批判に対して、夫婦の姓と家族の関係性は関係ないという批判もある。家族という枠組みが家族の関係性と結びつくものではないという著者の論旨と親和性の高い批判である。だが、家族の関係性は、姓で規定されるほど単純なものではないという指摘は、姓の同一化が無意味であるとまでは踏み込むことは出来ない。姓が関係性の全てではないが、姓によって保たれる関係性も存在するのだろうし、その想像力無くして個人の尊重は語れまい。

『家族という病』は家族制度という価値観の絶対視を否定しながら別の価値観を絶対視するという欺瞞を抱えている。個人として自立せねばならない近代的理想を受け入れながら我々が形式的な関係性から断ち切れないのは、既存の枠組みに甘えているのではなく、我々が弱いためだ。弱者への視点を欠いた改革論は弱者の手によって否定されるべきだ。そして、我々は誰もが弱者としての一面を持っている。弱者の一人として、私はこの著書に対し明確に異議を述べなければならない。

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「下重暁子『家族という病』/書評/山百合」への3件のフィードバック

  1. 硬い言葉で極めて冷静に書評を行っていて、内容も充実しており、特に異論はないが、少し気になった事を。単純に私の理解力の問題の話なのかもしれないが、少しわかりづらく感じた。同じ事を別の表現にする事も可能であるはずなのに、なぜこのような文体を用いたのか。そして、読者を誰と想定して、この書評を書いたのか。その点は単純な疑問として問いたい。

  2. 文章のテンポが悪く読みづらいです。
    単純に一文が長いというのもありますが、論理の展開が読んでいて予想できず、あまり頭に入ってきませんでした。比喩や接続詞を使ってもっとスマートな文章にしたほうが受けはいいと思います。
    内容としては「我々が弱いためだ」が論理として飛躍しているように思えます。また自分の意見に対する反論がないため若干不安定に感じます。

  3. よく考えられているのはわかるが、読みにくい。読み直したり、一度止まって理解してから進む、の繰り返しだった。

    書評とは読んでいない人に、私はこの本を読んでこう思ったよ、買って読むべし!または読まないべし!を伝える文章だと私は思います。だとすると、閉じた中ではなくて相手に読ませる文じゃないと駄目な気がする。

    私なら、なんか難しいこと言ってる、私もこれ読んだら賢くなれそう!買おう!ってなってしまいかねない。新書だからなおさら。で、後で絶望しそう。

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