夜蜘蛛/嵐/なべしま

図鑑でコガネグモの項目を開く。小学生でさえ、いや、早熟な幼稚園生でさえ読めるようなカラー図鑑だが、それでも事足りる。名前だけあって、クモにしては綺麗な部類に入るだろう。黄色の縞が体を華々しく飾り立てている。一見ジョロウグモのようでもあった。緻密な円を描く繊細な巣を編む。クモにしては上等だが、潰すのには躊躇はしない。
交尾相手を食べてしまうこともある、という無邪気な一文がいやに毒々しかった。

 

 

「ここのところずっと、嵐ですからね。外に出られないのよ」
館の女主人は申し訳なさそうに分厚いカーテンを指でなぞった。
「嵐の時に外に出るような奴は莫迦ですよ」
「雨も風も止んでくれさえすればね、私も庭の手入れでもできたのですが。寝室の準備で手一杯でしたわ。お庭はひどいありさまだったでしょう」
「いいえ、そんな。だいいちこの雨ではどうしたって荒れてしまうでしょうからね。お部屋の支度だけで、私はあなたに一生の恩義があるようなもんです」
「まあ。嬉しいお言葉ですけれど、あのお庭は本当に綺麗なんです。お見せできないのは十分なもてなしとは言えませんわ」
どういうわけか彼女は何をしても後ろめたそうに見える。
「それは楽しみだ。雨宿りの甲斐があるというものです」
「どうぞ、そうしてくださいませ。後でお部屋にお湯をお持ちしますわ」
豪奢な部屋だった。かといって部屋に物が多いわけではない。暖炉の細工にせよ、ベッドの刺繍にせよ、手が込んでいるのだ。これをあの主人の細腕で掃除をしているのだと思うと、彼女の熱心な心遣いが身に染みる。蠟燭でさえ少しの埃もなく、白く輝いていた。
「失礼します。よくお休みになられましたか」
「おかげさまで。いいお部屋ですね、掃除が行き届いています」
「あら、お恥ずかしい。そんなに褒められるものではありませんわ」
目を伏せ、顔を隠すようにしてお湯の入った磁器を足元に置いた。絨毯のせいか、音もたてずに一連の動作をこなすと扉のそばへと歩いていく。
「待ってください」
「何かご入用ですか」
怪訝な顔で振り向くが、それでも椅子のそばに戻ってきてくれた。
「一人で過ごす時間を、どうしていいのかわからないのです」
「あら、私にお話を期待なさらないでくださいな。何も知らない無知な女ですから」
そう言いつつ、誘いを受けて頬が上気していた。この寒い嵐の夜にしては薄すぎる服を身に纏っている。
「いいえ。私はあなたの話を聞きたくてここまで来たのですよ」
一歩詰め寄る。思いがけぬ反応だっただろう。彼女は少し青ざめたような顔でこちらを見つめていた。
「そんな顔をなさって、なにかご無礼をいたしましたか」
「可愛い息子の顔、まあ知らなくても仕方ありません」
「私に子どもなんておりません」
「一度は、あなたは私の義母さんになったことがあるのですよ」
事情を察したのだろう、年老いてなお美しい顔を憎々しげに歪め、彼女はこちらをねめつけた。

「私が生を受けた後、父はあなたのもとへ行った」
「……そう。私はもう、覚えていないわ。何人夫を食べたことか。でもね、仕方ないのよ」
初めて力強い表情を見せ、彼女はこちらを向いた。
「さっさと私の閨から出ていけばよかったものを。それは私のせいじゃないわ」
「そうでしょう。交尾の相手を食い殺すのはコガネグモの性です」
「ならばなぜ、あなたは私を詰問するのです」

家に籠り、獲物を待ち、寄る夫も食い殺すのはクモの欲求だろう。
だが夫を殺すのは罪だ。そんなこと当然ではありませんか。

「あなたはコガネグモではなく、人間ですから」
彼女の手に握られていた分厚い鋏を叩き落とした。

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「夜蜘蛛/嵐/なべしま」への4件のフィードバック

  1. コガネグモや男女の関係のアイデアが面白いだけに、展開が読めてしまったまま終わったのが残念です。それぞれの動機付けの弱さとリアクションの不自然さが原因だと感じました。
    中盤の状況説明でどうしても文字数を喰うのなら、ある程度ばっさりカットしても良いと思います。

  2. 洋館、女主人の狂気…、設定や語彙のチョイスは好みなのですが、少々描写が複雑なのと妙に丁寧語がくどいのが気になってしまいました。もう一つ展開があったらとても熱いなと思いますが、文字数との兼ね合いが難しいですね……。

  3. むかし「蜘蛛女」という映画もありましたし、はるか昔ギリシャ神話にも蜘蛛と女性の合成獣が登場します。悪女と蜘蛛のイメージは親和性が高そうです。
    序盤から丁寧に盛り上げただけに、猟奇殺人者である女主人があっさりと無力化されてしまうオチは少し残念でした。どうせなら『黒い家』のサイコ・キラーのごとく必死のあがきを見せてくれてもよかったのかもしれません。

  4. ノルニルの「黒い家」を検索してみたら、冷え切ったからだが一段と冷たくなりました。

    書いてある内容が一番最初に一通り書いてあったので、最後にプラスαほしかったかなという感じ。最後まで面白く読めただけにこの消化不良の感は否めなかった。夜蜘蛛というタイトルから展開が読めてしまうのも惜しい。

    丁寧語が不自然なほど使われているのは、不気味でよいと思いました。

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