強い雨が窓を打ち、風がゴーゴーと音を立て木々を揺らす。そんな嵐の日は、なんとなくわくわくしてしまうものだ。家の外に出なければならない用事があるときにそんな天候だったら最悪だけど、休みの日はそれを理由に一日中引きこもって過ごすのも悪くない。昼間なのにあたりは薄暗く、時間の感覚が少し狂ってしまう感じも、非日常感が増していい。
わくわくはするけど、結局はすごく怖がっている。このまま家が壊れてしまうんじゃないか。川が氾濫して、一気に水が押し寄せて来るんじゃないか…近所中がパニックになって、みんなが避難所へ押し寄せる。わたしたち家族もなんとか逃げてきたものも、着の身着のまま、雨で濡れた洋服が冷えてどんどんわたしたちの体温を奪っていく……そんなところまで妄想する。一通りの悲劇を妄想したところで、ふと我に返り、ぬくぬくとブランケットにくるまり直し、温かいマグカップに口をつける。自分の置かれている現実がどんなに暖かく平和なものか実感し、安心する。
平穏な日常が壊れる妄想に浸ってしまうのは、何故だろう。嵐に限らず、地震や火事、交通事故など、わたしは何か、わたしなんかの力は到底及ばないような、大きなちからによってわたしの生活が壊されることを妄想してしまう癖がある。その妄想の中で、わたしや、わたしの大切なひとが酷い目に遭えば遭うほど、平和が崩壊すればするほど、わたしの感じる一種のエクスタシーのようなものが高まっていく。辛い妄想に埋没すればするほど、現実に返ってきたときの幸福感が増す。
不幸な場面を想像して、自分が実際に置かれている状況がいかに恵まれているかを実感して幸せを噛み締めるなんて、陳腐すぎると思う。不謹慎だなんだというつもりなんて到底ないけれど、そんな妄想しなくても、自分は恵まれているに決まっているのに。
結局のところ、自分の幸せなんて、誰かと比べないと、わたしにはわからないのかもしれない。こんなひどい状況に比べたらわたしは恵まれている、幸せだなあ、なんて言って満足しているだけなのだと思う。……まあ、幸せってなんだ?って話になったら困ってしまうけど。こんなくだらないことをつらつらだらだらと書いていられるっていうこの状況がすでに、しあわせなんじゃないかと思うけど。
本当にそんな嵐みたいな状況に見舞われて、それまでの平和がめちゃくちゃになってしまったあと、わたしは立ち直って、再び「自分は幸せだ」と思えるのだろうか。誰かと比べたりせず、自分で自分の「幸せ」を掴み取りに行くことなんてできるのだろうか。この幸せボケしたわたしが、そんな困難に立ち向かっていく自信なんてない。
……なんて、ここまで全部、くだらない甘えでしかないっていうことも、わかっている。いつかこんなに甘えていられなくなって、嵐の中に放り出されるんだ。そんなことわかってるけど、今はまだ、ぬくぬくと窓の外の嵐を眺めていたい。
口語的な文章と嵐という言葉の親和性は薄いなと思った。嵐という文章が浮いて見える。今回テーマが嵐だけれど、テーマであって、嵐という言葉を入れなければいけないということはないので、別の言葉にした方がスルスルと読めたのかもしれない。もしくは、嵐という言葉を使わなければならないという、必然性を組み込むとか。導入からラストまでの飛躍の仕方はおもしろいなと思った。
ペナルティのコメント失礼します。先に言われていますが、嵐というテーマに囚われすぎている気がします。主として語られている内容が面白いだけに勿体無い。台風が来たりしてる時のあの非日常感及び興奮はなんなのでしょうね。私はそんな時不幸な想像というより、馬鹿みたいにはしゃぐので、つい比べてしまい少し恥ずかしくなりました。
筆者主体の文章のように見えて、どこか他人事というか、ゆさん別にそんなこと考えてるの?って感じの感想を抱きました。
幸せという概念についても、描写としてもただマグカップ片手にぼんやりと考えてるだけですが、文章で触れてる内容もなんかぼんやりしていて、もっとドロドロ重いこといつも考えてるくせに!!となりました。
台風クラブ思い出しました。なんだかわたしにはこの気持ちはまだわかりかねるかもしれない。心の中をつらつらと描いているだけで目に見えるアクションを何一つ起こしていないのにすごくひきこまれました。