静けさ/嵐/リョウコ

私には、嵐の音が聞こえていた。
物心が付く以前から、私の耳には荒れ狂う風の音や強い雨の音が常に聞こえていた。窓の外がどんなに美しい青空であっても、私の耳は風雨の音を拾った。
それが他の人間には聞こえていないということを理解したのは、幼稚園のときだった。アスファルトに撒いた打ち水が、一瞬にして湯気になってしまうような熱い夏の日。私の耳にはかつてない程に大きな嵐が近づいていた。
「きょうは、タイフウが来てるから、ヨウチエンお休みする」
小さな私は、少ない言葉で懸命に嵐が来ていることを訴えた。母は困ったような顔をして、幼稚園に行きたくないの?と私の頭を撫でた。言いたいことが上手く伝えられず、私は泣きだしてしまった。
「どうして、ママは、きこえないの。きてるよ、タイフウが、きて、きてるよう」
ますます困った顔になった母は、私を抱き上げた。鼻水や涎まで出して、顔中のものすべてを使って泣く私の背中を優しくさすりながら母は言った。
「あのね、チエちゃん。ママには台風が聞こえないのよ」
風は私の身体のまわりをぐるぐる回る様に吹いていた。雨は私の頬を思い切りたたく様に降っていた。
嵐の中に居るのは、私だけなのだと気づいたその日、大好きだった父と母の離婚が決まった。

嵐の音は、未来を示唆していた。私に何か、とても悲しいことが起こるとき、嵐は決まって激しくなる。

嵐の音は、未来を示唆していた。友達と喧嘩する前、大切にしていたイヤリングを亡くす前、可愛がっていた猫が死ぬ前に、嵐は激しくなる。私にとって何か厭な出来事が起こる少し前、私にだけ風が吹き雨が降る。予知能力とはまた違う、危険を察知する本能のようなものだと私は理解している。
生まれてから二十数年、私は嵐とともに成長してきた。私が嬉しいときも悲しいときも、嵐は弱く強く私の周りを吹き荒れた。
しかしつい最近、もはや私の身体の一部だった嵐がぴたりと止んだのだ。雨が止み、風が止まり、私の世界から嵐が消えた。二十数年の間にこんなことはなかった。なんだか耳がさみしい気もした。
だが、これでやっと普通の人間になれたのだ。私はとても嬉しかった。これで、友人と、家族と、そして恋人と同じ世界に居られる。
待ち合わせ場所の時計塔を見上げると10時5分前。辺りを見回すと、此方へ向かって走ってくるマサト君の姿が見えた。嵐が聞こえなくなったのは、この人に初めて会った日からだ。私は笑顔で手を振って、彼を呼んだ。遠くで雷が鳴った。

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「静けさ/嵐/リョウコ」への3件のフィードバック

  1. おもしろかったです。誰もがなんとなく感じる胸騒ぎのようなものを、うまくテーマに沿って例えているなと思います。
    最後もなんとなく不穏な感じで(ですよね?)、終始嵐の日の憂鬱な、不安な感じの文章でまとまっていて良かったです。

  2. 嵐の未来予知能力、という発想は面白いですね。大胆で凶暴な嵐が繊細な人間の心の動きを表現しているのもまた然り。終わり方も好きです。

  3. 両親の離婚が決まったあたりは、なんか気持ちいい心の痛さを感じて、すごく文章に惹きこまれてました。そのわりに最後あっさりとハッピーエンドで、「え?はやくない?」となってしまいました。男1人のおかげで嵐がなくなるなんて、主人公の女はもっと重い恋愛体質の女なんじゃないかな、と思うので、そういうドロドロをだしても良かったんですかね。

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