流行り病に侵されて/目/五目いなり

風の囁きの様に、それは静かに、素早く、至るところに広がった。東の村ではまた一人死人が出ただの、西の街では権力者の誰それが発病しただの、毎日がその噂でもちきりになる程に、その病は徐々に生活を蝕んで行く。

気の滅入る報せは街の工場から流れてくる煙と共に、自宅の窓から入ってきた。毎朝、毎晩、飽きることなく、絶えることなく。嫌なうわさに聞き慣れることはとうになく、街の喧騒にも死の足音にも、耳を塞ぎたくなる。もっとも、そんな噂を聞く耳も、もう少しで腐るのだが。

「大丈夫かい、コウ。辛いところはないかい?」

ぺた、と頬を撫でる手は嫌に熱く感じられた。それとも自分の体温が、いやに低いだけなのか。手探りでその暖かい手を握ってやると、手は一瞬だけ強張って、それからすぐに、柔らかく解れた。少しだけ骨ばった感触が、心地良い。

「大丈夫だよ、ソーニャ。もう、何も気にはならないさ」

「コウ……」

握った筈のソーニャの手を、上手く掴むことは難しい。指が形を失っているのは分かっているが、それを確認することが出来ない。ぽろぽろと指の肉が崩れて行く感覚は辛うじて残っているが、どこまで指が残っているかは分からなかった。恐らく、第二関節はもう残っていないだろうと、私はひそかに踏んでいる。

「最後にまた、この国の青い空を見たかったものだよ」

「……コウが最後に見た空は、灰色だったものね」

ソーニャの声音は、私にかつての風景を思い起こさせた。流れる小川に咲く花々、小鳥の囀りは高い空に響き渡り、草原を駆ける風が頬を撫でる……。

窓を抜ける風からは、煙の臭いがした。それでも工場の姿を見ることができないだけ、ましだった。私は工場の、物が焼ける嫌なにおいの混じる風に、過去の風を重ねてみる。見てさえいなければ、そうであると信じる必要はもうないのだ。特に、このように哀れに、腐った身体を寝台に横たえるだけの半分死んだような私ならば、なおさら。

「ソーニャ、君は生きるといい。この時代、この病に侵されていない人は、すべからく生きるべきだ」

「……」

「みてくれよ、ソーニャ。病に侵され腐り果て、死を待つだけの私を。死を前にしてなお君に縋りつこうとする哀れな私を。最早私の希望は、君だけなんだ。だから、生きてくれるだろう?」

「もちろんだよ、コウ」

ソーニャの声は、どこか震えていた。それはじきに腐り果ててしまう鼓膜のせいではないと私は知っていたが、私はあえて聞こえないふりをする。骨ばったというには少し無骨すぎる、まるで手の肉が剥がれ落ちている最中のような感触のソーニャの手のあり様を見る目も既に失くしているのだから、そうとは思う必要はない。

私は哀れなソーニャの手に縋りついたまま、同じ言葉を繰り返す。生きてくれ、という言葉にする度、ソーニャを殺している気分になる。しかし、言わずにはいられなかった。

「ソーニャ、生きてくれよ」

「ああ、もちろんだとも」

ああ、なんと哀れなことだろう。哀れなソーニャ、最後まで嘘を吐き通さねばならんとは。夢を見るのは時に残酷だなと、私はソーニャの手を握る。全て知っているのはこの腐りかけた、第二関節まで失った私の手だけだった。脳を介さない意思の疎通に答えるように、ソーニャは私の腐った手を、確かに肉の剥がれた手で、強く握った。

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「流行り病に侵されて/目/五目いなり」への5件のフィードバック

  1. 視覚を失い、遺された聴覚、触覚ももはや正常ではないコウは、おそらく自己と世界との境界線が曖昧になっていく感覚を感じたのでしょう。
    ですが、自己を自己たらしめているのは、自己が崩れ去るという感覚とソーニャの存在なのであると感じました。

  2. まったく日常からかけ離れ、でもわざとらしく小説を書きました!みたいな感じはしない。絶望の中にあるはずの2人の微妙な落ち着きもそれらしくて、五目さんにしか描けない世界観だなあと思う。
    私は、ある程度自分の経験した時間や感情をもとにしてしか書くことができないから、特に小説のようなものは苦手で、五目さんがどのようにして構想を練っているのかだいぶ興味がある。

  3. 目というワードをほとんど出さなくてもこれが目がテーマになっているというのはよくわかるし、細かい描写や表現もさすがだなと思います。この様子だとソーニャも病に侵されているようですが、その状況を詳しく説明しなくても読み手に伝わるというのはやはり文章力があるからですね。勉強になりました。

  4. ソーニャとコウの関係や性別かなんとなく気になりました。おそらく物語自体には関係ないから明記してないのだと思いますが……。急な設定だけどちゃんと読み進められることができて、そこに文章のうまさを感じました。

  5. 目そのものに注目してしまいがちな今回のテーマの中、なるほど見えないということで目というテーマを浮かび上がらせるというのは、考えてもなかったので、参考になりました。
    死に近づいていくふたりの雰囲気もなかなか僕には書けないのでいいなあと羨みます。

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