鳥目/目/なべしま

鎧橋が落ちた。
その報らせを聞いてからの江の決断は早かった。
髪を下ろして、白いワンピースを着る。
化粧は服に負けないくらいに白く重ねた。

江は裕福ではなかった。
でも、そんなに恵まれてないわけじゃ、ないわ。
そうも思う。
薄いトタンの壁。それでも雨風が凌げるだけの家があるのは幸せだ。借金があるわけでもない。もっとも蓄えがあるわけでもないから、日に稼がなければ窮する。
毎日働くのは当然のこと。家があるだけ、幸せだわ。
江は辛くはなかった。その日暮らしは性に合っていた。

八月の初め、花火大会がある。毎年人が大勢集まり、大会の場で花火なんて、楽しめたもんじゃない。
地元の人間は鎧橋に足をのばす。水辺で幾分か涼しく、花火会場よりは人が少ない。地元の見知った人の多くいる鎧橋は交流の場でもあった。花火の上がる時間が迫るにつれ、人はどんどん集まってくる。
鎧橋は古い石の橋だ。人を乗せるのにはあまりにも朽ちていた。けれど日頃は見捨てられているために、誰もその危険に気付かなかった。人々を乗せたまま、橋は崩れ去った。
それを聞いたのが数分前のこと。
江はすっかり準備を整え、姿見で自分を見つめた。

母さんはこの家を遺してくれた。生き方を教えてくれた。愛してくれた。
だから、江はそれ以上を望まなかった。
江の母が亡くなったのは、数日前のことだ。江の母だけあって、滅多に欲を口にしない。世間様並みの欲なんて、私は持っていい人間じゃないわ、とよく言っていた。
「江」
「江に何もしてあげられなくて、ごめんね」
「お金があれば」
「江大好きよ。ごめんね」
そんなことを、ぽつりぽつりと話して死んだ。生前気に入っていた白いワンピースが眩しい。寺に頼み込んで、無縁仏にしてもらった。
母さんはお金が欲しかったんだろうか。
幸せではなかったのかしら。
お金があれば、喜んでくれるのかもしれない。
仏様が喜ぶのだろうか。
それでもいいわ。お金が欲しかったのなら、供えてあげたら、きっと嬉しいはず。
けれどお金なんて余りはしない。
そんな時に聞いたのだ。鎧橋が落ちたと。
人が死んだだろう。
死んだら仏様だ。それなら、懐のものなんて要るだろうか。

死んだ母親の姿。江は見事に化けた。そうして鎧橋まで駆けていった。

不思議なことに人気はない。多分、江の決断が早かったために、まだ救助が来ていないのだろう。川のほとりに大きなものが転がっている。江がそれをひっくり返すと、男であった。薄着だ。迷わずズボンのポケットに手をのばす。案の定そこに財布があった。暗くてよく見えないが、小銭が何枚か入っていた。仏前に供えるだけだから、一枚でいい。一枚抜き出すと、そのまま走って帰った。

男はじっとりと濡れていた。川に落ちたのだから当然だ。けれどその湿り気は、生きていた頃の残り滓のように思えた。死んで、要らなくなった水分が染み出しているような。
何だか不安になった。行けども風景は変わらない。来た時よりも、絶対に道が長くなっている。長い帰路を急いで家の扉を開け、へなへなと座り込んだ。
汗が止まらない。夏に全力疾走したのだから当然のこと。分かっていても江はあの死体の感触が忘れられなかった。小銭を握った手の中が特にひどい。じとじとして死体のようだ。

そういえば。
江は自分の行動に初めて疑問を持った。それまでは熱に浮かされたように一途だったのだ。
私は泥棒かしら。
勝手にもらってきてしまった。母さんが喜ぶだろうと。
もし、泥棒なら。母さんが言っていた。泥棒は悪いことだと。そんなことをしたら、罰があるはずだと。
ゆっくりと手を開く。
手の中に握られていたのはお金ではなかった。湿った目玉が、どこを見るわけでもなく、ただついていた。

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「鳥目/目/なべしま」への5件のフィードバック

  1. 最後のオチに、薄々感づきながらもゾッとしてしまいました。とても上手いと思います。

    鎧橋に向かうまでの回想シーン、説明が長いと感じられたのが少し残念です。少し短くするか、引き付けるようなうまい描写が入ると、もっとよくなるのかなと感じました。

  2. ひええ…と思わず声を上げそうになりました。ここで目が出てくるか…と。
    短文で連ねられていくことによって生まれるリズムが読者の緊張感にいい効果を果たしていると思います。
    文の始まりも素敵ですね。

  3. べたべたした気味の悪さが文体、構成によってしっかり出ています。
    オチも怖かった!
    何故男の財布から目玉が……?握っていたのが目玉であったことより、そっちのほうが私は怖かったです。
    メインの、死体漁りに出かけるシーンまでがやっぱり長い。お金がないこと、母が死んでいること、仏にお金を供えたいこと。この3つを、雰囲気を崩さぬまま今の半分くらいで描いて、メインをもっと重たくするともっと良くなると思います。
    タイトルの、鳥目の描写がないことも気になりました。

  4. なんといっても雰囲気作りがうまいとしか言いようが無い。目玉に何かしらの意味があるのだろうけれど、それが何なのだか理解できなかったのが悔しい。

  5. 最後まで読んで、タイトルを見返して納得しました。
    狂ったロジックが生まれる過程の描写が細やかで、日常の道徳観を捨て去るほど視界の狭くなった様子がよく描かれています。
    ここまで書いて、「羅生門」の下人の考え方とも共通する部分を感じました。もし人の行いが何かしらの罪を負うとしたら、やはり罰は待ち構えているのでしょうか。今回は残酷な結末となりましたが、逃げきってほしいような気もします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。