紙一重/嫌い/ゆさん

歳を重ねて、以前よりもなにかを「嫌い」だと思うことが少なくなった。

 

高校生くらいまで、嫌いなものや嫌いな人がひどく多い子どもであったような気がする。そしてさらに悪いことには、思ったことはストレートに表に出すような我慢のできない子どもでもあったため、今思えば無駄に敵を作り、周囲と積極的に交わろうともしなかった。

 

子どもの頃から、集団行動が苦手で、小さな教室に押し込められ、クラスメイトと隣に座り、同じ授業を受け、班活動をすることが苦痛で仕方なかった。そんな空間で、他人の粗を探してそれを非難して壁を作ることは、幼いわたしにできる唯一の防衛手段だったのだろうか。

それに対し大学は本当に楽だ。自分で勝手に授業を組み、勝手にサボり、一日誰とも話さないなんてことザラだ。誰かと繋がりたければ繋がって、気が向かなければ離れる。それが許される今の生活は、ぬるま湯にぷかぷかと浮かんでいるようで心地よい。

 

なにかを嫌うことのエネルギーはすごい。それのどこが嫌いか、相容れないか、気持ち悪いか、不愉快か、持てる限りの言葉を尽くして語ろうとするときの熱量は、好きなものについて語るときのそれを圧倒的に上回っているような気がする。

いまのわたしは、昔のわたしに比べて、圧倒的に「好きなものにだけ」囲まれて生きている。なのに、なんだか空虚だ。本当にそれが「好き」なのかすらわからない。

嫌いなものに囲まれていた時は、「嫌いなもの」と「好きなもの」の対比があったから、好きなものがより輝いて見えた。例えば、大嫌いな数学の授業の後は、大好きな古文の授業が楽しかった。しんどくてしんどくてたまらないテストを終えた後、大好きなバンドのライブに行けるのは幸せだった。わたしの好きなものたちのことを、わたしはきっと間違いなく、好きなのだろうと思う。でも、好きなものに関して積極的に語ろうとすると、どうしても言葉に詰まる。それの何が好きなのか、わからない。説明できない。「嫌い」を語らないと「好き」が浮かび上がってこないなんて、なんて不器用なんだろう。

 

嫌いなものやひとを見ているときはイライラするしムカムカしてたまらない。でもかなり細かく見ている。凝視していると言ってもいい。そのとき、わたしはその嫌いなものを通して、好きなものを見ているのかもしれない。

嫌いから好きに転じるのはけっこう簡単なことだ。好きなものと違うからこそ、そこに興味が湧くのもよくあることだ。そう考えたら、好きなもののことしか見ていないわたしは、もしかしたら人生半分損しているのかもしれない。

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「紙一重/嫌い/ゆさん」への2件のフィードバック

  1. 嫌いな人嫌いな人って言っている時って少なからずそのひとに興味をもっていることの表れな気がします。
    考えもわかりやすくまとまってて、個人的には読みやすかったです。
    紙一重という題名もそのワード自体は出てこなくて興味をひきました。

  2. 嫌いから好きになりやすいとありますが、その逆に好きから嫌いになるときもあっという間に思います。嫌いがないと好きがはっきりしないというのが腑に落ちました。紙一重でも2つそれぞれや対比がはっきりしていてわかりやすかったです。
    最近はある程度の好き嫌いは必要だと感じています。

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