酒と私/嫌い/JBoy

 

私はお酒が好きである。

 

だがしかし、酒は怖い。

酒を飲むと、私は私自身が最も嫌うタイプの人間へと変貌してしまう。思ったことをすぐ口にしてぺらぺらと口数が多くなり(もともとおしゃべりではあるが)、そのくせ意外とナイーブだったりして非常に面倒くさい。もし自分自身と一席交えている状況になったならば、まず真っ先に距離を取っていることだろうし、間違いなく大喧嘩になると思う。

 

 

そもそもだが、酒の入った状態をその人の本当の姿であるとするのなら、その状態を忌み嫌う素面の状態の自己とはいったい何なのだろうか。本能という核の部分があり、理性という外殻の部分が外付けされているという自己内面の構図を設定するとき、その本質は本能ではなく理性の側にある。なぜならこの構図自体、理性と本能という2つの概念自体もこの理性のもとで構築されているからである。

 

そう考えるならばある人の本性、本質というものは、外殻の部分の現れ方によって判断しなければならないのではないか。したがって先の問いの前提条件の部分がすでに矛盾を抱えているということができる。

 

また「酔い」についても、そこには2つの状態があることは想像に難くない。一つは理性の薄皮が剥がれていっている状態である。この状態にはいくつか段階があり、酒の入りが深くなればなるほどその薄皮はむけていく。そしていま一つは外殻がすべて剥がれ落ちてしまった状態である。これを前者は「酩酊」、後者は「泥酔」とする。

 

泥酔状態の自己については、その責任は自分に属しているのはもちろんだが、ここでの自己判断の範疇ではない。なぜならば泥酔状態では理性の力は完全に失われているので、判断の根拠を持たない。もちろん後から周囲の人に聞いたりして判断することは可能ではあるが、それは自己省察の域を超えたものであるのは言うまでもない。そこにいるのは動物的本能により突き動かされる、人と獣の間の何かである。

一方で私の忌み嫌う自己とは、この酩酊状態の自己に他ならない。だが同時に、そこにはある種のあこがれに似た感情もあるといえる。周囲から見れば、普段の自分も思ったことは割とすぐに口に出すタイプではあると自負しているが、それでもやはりうまくいかない思いを抱えていることは事実としてある。そこへきてこの酩酊状態の自分は、そのさらに上の段階でずけずけとものをいう。怖いものなど何もなくなってしまう。その勇気がたまらなく恐ろしく、たまらなく嫌いで、しかしたまらなく羨ましいのだ。

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「酒と私/嫌い/JBoy」への1件のフィードバック

  1. 何かお酒で失敗したのか、と思うくらいに丁寧に考えられていました。お酒で泥酔したことはありません。お酒がなくとも酩酊状態のようにぺらぺらと話してしまう時もありますから、想像すると恐ろしい。自分じゃないと切り捨てられたら楽ですね。

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