瞋恚/百合/なべしま

人の記憶というものは、薄れゆくものでありますから。
遠い国には大きな石の、積み上がった場所があるそうですが。
それが何か。それさえ忘れ去られました。
だからこの丘の上に鐘のあることを、誰もが忘れてしまったとて、不思議ではないのでしょう。


「安なの?」
「うん、そう。また来た」
鐘の中は、声が籠ります。
キヨはよい声をしていたから、安はそれが惜しくもありました。
「キヨ、どうしても、そこから出てはこれないの?」
何度目の問いでしょうか。いつだって、キヨの答えは変わらないのです。
「どうしようもできないわ」
いつもそう言います。けれど、
「でもね、気づいたのよ」
キヨはそう告げました。


数年間、安は鐘を訪れました。
一度も助けはありません。皆忘れているのでしょう。
「ねえキヨ。鐘の中ってどんな風?」
「うん、そうね。今は昼だから少し明るい」
「へえ!意外。光があるの」
「少しだけれど」
安は鐘に寄り添います。日の光で、ほのかに温かいようでした。キヨの体温のようにも思えました。鐘の厚い金属の向こうに、たしかにキヨを感じます。おそらくキヨも、こちらに体を寄せるのでしょう。キヨの声が、鐘の表を伝わります。
「それよりも、何か嫌なことでもあった?」
キヨの声。それがあまりに優しいから、何もないよと答えるのです。


「なあに、キヨ。どうすればいいのか、教えてよ」
安の声は弾んでいました。
「私とずっと、お話しして、そうしてくれるの?そうなるの?」
「ごめんなさい、安。そうじゃないの」
キヨの声も、晴れやかでした。
「このまま鐘を、焼いてほしいの」
それは安に会ってから、ずっと思っていたことでした。幼い安に言えることではありません。だから待っていたのでした。
「私には愛しい人がありました。その人に、こちらを向いてはもらえません。きっと私あの人を、憑き殺したはず。この鐘は、慈悲だったのです。もう要らないわ。安のお陰よ。だから」


鐘を炎が嘗めました。盛大に鐘を包みます。面の模様をちろちろと、いやらしく這い回ります。鐘が鳴るのは、キヨの悲鳴なのでしょうか。低く、陰気な声でした。
その晩、キヨに捨てられた夜。安は不思議な夢を見ました。
白いされこうべの口の中、蛇がとぐろを巻いています。ぞろぞろ這い出て、それっきり。

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「瞋恚/百合/なべしま」への3件のフィードバック

  1. 余計な説明を排し、非現実で幻想的な世界をつくりだすことに成功しています。
    気になるのは、この世界においてキヨは確かに実存しているのか、幽霊のように儚い存在なのか、安の単なる妄想でしかないのか。どう解釈すればいいのか迷いました。
    蛇は男性の象徴とも、女性の象徴とも言います。僕も予備知識がなければ結末の意味を分かりかねていたかと思いますが、それでも雰囲気に落とし込んでいるのでイメージは伝わりますね。このやり方は参考にしたいです。

  2. 世界観が完成されていますね。鐘の中に住んでいるという設定が異質すぎてはじめは驚きました。けれど、その設定も、キヨの異常なほどの憎しみも、安の不思議な夢の気持ち悪さも、地の文の丁寧な語り口によって緩和されていて、すっと物語の中に入り込みやすかったです。逆に、それによって物語全体の奇妙さが際立っているようにも感じましたが。

  3. 一通り読んでみて、童話みたいな世界観と語りかただな、とまず、思いました。読み返せば読み返すだけ、読み手に考え込ませることができる、そんな文章だと思います。
    ところどころの言葉の選択も見事と素直にそう感じました。

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