あくびの涙のようなもの

涙、というテーマを見て、一番初めに思ったことは、「そういえば最近泣いていないなあ」という、なんだか若さのない感想だった。普段ならテーマに沿って適当な、そこそこ小綺麗に纏まった(と自負している)話をパパッとブログにあげるのだが、今回は己の手法も封じられ、とりあえずどうしたものかと思案した。
結果、とりあえずインターネットで「涙」と検索して、目に入った言葉に関してつらつら想いを述べていこうと思っている。なんたる無計画。なんたる無気力。しかし課題は課題である。ただでさえ低いGPAをこれ以上下げるわけにはいかんのだ。頑張れ、私。

まず手始めに「涙」と一文字打ち込めば、涙腺、液体、血液と、毛細血管、タンパク質やら、どうにも浪漫のない解説がずらずらずらと並んでいた。こうも冷静にあの綺麗な水の粒を解説されると、なんだか気分が重くなる。丁度下には涙を流した大きな瞳の写真があって、それらの差に頭が少し、もやっとする。
私は綺麗な涙を流した記憶がしばし数年ないけれど、涙に求めるものについては泣けないなりに、何か思うところがあったようだ。

悲しいとき、嬉しいとき、思い切り笑ったとき、涙は自然に溢れてくるものだという。私が最後に流した涙は確か数日前の大欠伸が原因だったはずだから、そこには美しさのかけらどころか感情すらなく、なんだか自分が情けない。しかしまあ、支障はないので無理に泣こうとも思わないが。

さて、少々目が覚めたところで、涙の話に戻したい。
私は涙を先ほどから綺麗綺麗と書いているが、涙は本当に綺麗なものであるのだろうか。私は悲しみや喜びといった綺麗な感情から涙を流した覚えが、先ほども言ったが、ここ数年には見当たらない。その代わりに、緊張だとか恐怖だとか、意識よりも体が先に反応する、いわゆる状況が丸ごと私を捕まえてしまう場面では、よくぼろぼろと涙が出る。例えば電話を掛ける時。例えば、誰かに叱られた時。

自分のためだけに流した涙が綺麗であるとは、あまり聞かない話である。では、他人のために流した涙は、果たして綺麗なものであるのだろうか。そういうわけでもないだろう。他人の為などこの世のどこにもありはしないから、自分以外のための涙なんて、私は一度も見たことない。見たことないのに綺麗だなんて言えるものか。
では涙は、綺麗なのか。
どうなのだろう、わからない。

好きな人にふられたと、泣いた友人の涙はとても綺麗に見えた気がする。いやまあ、こんなことを言って仕舞えば彼女はきっと気を悪くするだろうけれど、あのときの溢れる悲しみを心のままに抑えることなく零した彼女は、どこまでも綺麗だった。涙を拭えとハンカチを差し出すことすら戸惑うほどに、彼女の涙は綺麗であった。
ほかにも、綺麗な涙はたくさんある。大切な人を失った後の静かな雫、弾けた情熱の燃え滓のように輝く粒。その涙には素直さ、爆発、勢い、そして美しさが、渦巻いている。ともあれば、涙を輝いて見せるのでは、その人の隠しきれずに溢れ出たこことそのものなのではないだろうか。

私はこの文章を書くにあたって、大きな感情を爆発させているわけではない。いわば欠伸をした後に出てくる、ただの生理的なそれ、抜け殻的な涙のような文章になってしまったと自覚している。情けないが手を塞がれれば表現できるものなどこんなものだ。私は泣けなどしなかった。
期末の課題をこのように締めくくるには気がひけるが、無理に言葉をまとめることもなく、この無気力の在るが儘、手を縛られた状態で、この文章を閉じることとする。

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「あくびの涙のようなもの」への3件のフィードバック

  1. 綺麗という字はそれだけで強すぎる印象をはらんでいるので、効果的に一度ぐらいならいいですが重ねて使われるとげんなりしてしまいます。
    今回の課題はいつもと違う形式とのことでしたが、文章のスタイルは多種多様ですし、こうした随筆?の他にもやりようがあったのではと思えてなりません。
    テーマの表面をなぞるような文章だと感じました。推敲のプロセスを言語化したような形といってもいいかも。ならば、そこで心に触れたものを突き詰めてみても面白いかもしれませんね。

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