「あなたが生まれたとき、あなたは泣いていて周りの人達は笑っていたでしょう。だから、いつかあなたが死ぬとき、あなたが笑っていて周りの人たちが泣いている。そんな人生を送りなさい。」(ネイティブアメリカンの教えより)
私がこうして泣いているのだから彼は間違いなく幸福だろう。
葬儀の場はこれで三度目になる。一度目は父親の知人の時、二度目はクラスメート、そして今日で三度目。感情をほとばしらせるのに他人の目が必要なのか疑問だが、来なければならないのは来なければならない。強く否定するほどの哲学も持ち合わせてはいない。
年甲斐もなく泣き出した成人がいるのだから、周囲の注目は自然と私に集まる。もっと日常的に泣く人が多い世の中だったら、私もここまで目を引きはしないだろう。感情を表に出さない国民性が恨めしく、この時ばかりはアメリカ人に生まれれば良かったなどと、感情があふれる横で不謹慎にも考えていた。
涙が流れていたことは事実だが、それは周りの思うような涙ではなかった。私だけは認めてはならない。この涙は自分のために流しているのだ、その意味付けは私自身のものだ。彼との関係は誰にも言ったことは無い。悟られないようにする術も学んできたのだ。
人に会う時と別れる時は緊張する。人との触れ合いを求めながら、躊躇してしまうのはどう会ってどう別れればいいか、平均寿命の1/4を過ぎても未だ答えを持っていないためだろう。会う時は会ってしまえばそれで解決するのだが、別れる時は果てが無い。どこでまた出会うか分からないのに、いつ別れを感じればいいのだろう。別れた後、時間も経たずに再開した時の気まずさは未だに慣れない。そうかと思えば、再開を確実に思いながらそれが今生の別れになりもする。
だから、確実に別れる時は死なのだろう。その死をどう知るかまで考えていては果ての無い話になる。今は死に直面している。その事実だけで十分だ。
私は涙を流した。自信を持って流したのだ。私はあなた方の思うような単純で感傷的な人間ではない。この涙は悲しみの涙ではない。この涙は…
泣いているという行動の描写ととてつもなく冷静な内面の描写に違和感がありました。論理の展開も少し分かりにくいところがあるので、書かなくていいように感じる前提も丁寧に取り入れたほうが良いと思います。
涙の意味は「彼を幸福にするため」出会っているのでしょうか。涙の隠された意味と周りの文章が結びついてこないので消化不良感が残ります。
身内でのお葬式しかしたことがなく、周囲の目とはそんなにも辛辣なものなのかと一つ学びました。
涙は自分のためにしか流せないでしょうが、前半の、感情を表に出さない民族云々からの最後の文が繋げにくかったです。民族あたりでは大分感傷的になっているように読めました。
これ
これかなー
これで