泣いて喜ぶ

 

まだ人生を語れるほど長くは生きてないが、そんな短い人生の中で喜びの涙を流したことが一度だけある。

 

中学校の卒業式でぼろくそに泣いてからというものの、それを境に非常に涙もろくなった。年を重ねると涙腺が緩んでくるというが、それは私の場合も例外ではない。以前は涙腺がぴくりとも反応しなかったお涙頂戴系の映画やらドラマに涙を流すようになり、しまいには歌を聞いてうるっときてしまう始末である。理由は自分でもよく分かっていない。中学の卒業式で今まで涙をせき止めていたダムが決壊してしまったのか、物事を経験するうちに感受性が豊かになっていったのか、それとも単純に年の問題なのか。

一つだけ言えるのはいずれも喜びの涙ではないということ。同じ映画を見ては泣いたり、同じ歌を聞いては泣いたりなどここ数年で何度も泣いたが、どれも感動の域を出ない。先ほど述べた一度だけ流した喜びの涙というのは、むしろ中学の卒業式以前の話だ。あの涙だけは最近の量産型涙とは質が違ったというのを確信をもって言える。

 

あれは中学3年生のときのこと。サッカー部であった私は引退のかかった試合に臨んでいた。リーグ戦で窮地に立たされていたわが校のサッカー部は、次に進むためにはこの試合を勝つことしか許されなかった。つまり、負けは愚か引き分けでも即引退が決定する。

戦況は極めて悪いといえた。後半、残すところ3分で依然0対0。格下が相手であったにもかかわらず、ゴールを焦るあまりに喉から手が出るほど欲しい1点がなかなかとれない。ついにはロスタイムに突入し、引退の二文字が頭をよぎる。そんなときだった。我らがキャプテンが相手からボールを奪い、そのままそのボールを相手ゴールへとぶち込んだ。最初は何が起こったのか分からなかった。気づいたときには、キャプテンの元へと一直線に走り出し、抱きついていた。リスタートをした瞬間に試合終了の笛が鳴ったから、本当にラスト数秒のゴールだったのだと思う。土壇場で勝利し、私たちの引退は延びた。

そのときだ、涙を流したのは。自然と溢れていた。泣いて喜び合うその一瞬を切り取れば、まさに青春の一ページといえるだろう。これは非常に貴重な体験だ。涙もろくはなったが、好きなバンドのチケットが当たったときも、告白が成功したときも、大学に受かったときも大いに喜びはしたが、涙を流すには至らなかった。泣いたのはあのとき一度きりだ。この先、喜びの涙を流すことはあるのだろうか。推測でしかないが、多くても両手で数え切れる程だろう。この貴重な涙は、私の記憶に深く刻まれている。

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「泣いて喜ぶ」への3件のフィードバック

  1. 喜ばしい瞬間はたくさんあったけど、泣けたのはそのときだけだったというのは、喜びの大きさが他と格段に違ったというよりは、その場の空気やシチュエーションと合わせて、すごく興奮していたからではないかと思った。
    私も最近感情的になりやすいなと感じているが、逆にいろいろな刺激に慣れてきて、感動系の作品などでは泣けなくなってきたような気がする。

  2. 中学のときに教科書に出てきた俳句で「緑の芝生と赤鉛筆のコントラストの鮮やかさにすら、泣けてしまう情緒豊かな思春期をあらわしている」的な解説をされているものがあった。いや冷静に考えてそんなことで泣かねーよと思っていたのだが、高校生になって割と「今日は空が綺麗」というだけで涙ぐむなどしたからあながち間違っていなかった。
    嬉し涙というもの自体は確かに貴重なはずなのに、こういうものの題材にするといい話だなで終わってしまうのはなぜなのだろう。たぶん、主人公に感情移入させられたら主人公が涙する瞬間読者も「よかったね」と思えるのだろうけど。

  3. 感動の涙を流すまでのプロセスが丁寧に書かれていて、だから「へぇ」と思えるわかりやすい文章でした。
    わかりやすかったせいで、感情移入がしにくかったのかもしれません。でも、それを書かなかったら何故涙が出るのかわからない。難しいところだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。