親の涙

去年の秋、祖母が亡くなった。わたしの父の母で、もうかれこれ10年ほど体調が優れず、自力での歩行もままならないような状態で、さらに軽い痴呆もはじまっていたので、身の回りの世話をしてもらえるケアハウスに入っていた。
正直なところ、わたしは祖母にあまり懐いていなかった。祖母の方も、わたしたち孫を目に入れても痛くない!というような可愛がり方をするひとではなかったので、お互い様なのだろうか。とにかく、わたしは祖母が亡くなった時も、悲しいとは思えなかったし、もちろん涙も流さなかった。そもそも、なぜ亡くなったのかも知らないのだ。薄情な孫だと、非難されるだろうか。

葬儀の場で、遺族が悲しみに暮れるような暇はないのだと、初めて知った。わたしにとって最初の葬式は、幼稚園の時に経験した、父方の祖父、つまり去年亡くなった祖母の夫であるひとのものであった。幼いわたしがひとの死を理解するはずもなく、悲しみの涙を流すこともなかった。この歳になって経験する葬儀で初めて、遺族のやることの多さに驚いた。式場の手配、親戚への連絡、あいさつ、会食の予約など、慌ただしく準備を進めなくてはならなくて、泣いている時間もないくらいに思えた。
やはり一番忙しいのは喪主である父で、淡々と準備をし、といっても仕事をまるっきりほったらかしにするわけにもいかなくて、顧客に電話を掛けたり会社に行ったり、いつものように仕事をしながらも葬儀の用意をしている父は、少し疲れているように見えた。

祖母が亡くなったこと自体はあまり悲しくはなかったが、わたしの父が母親を亡くしたということは、悲しかった。さっき書いたように、もうわたしの父の父は亡くなっているし、もうこのひとの育ての親は二人ともこの世にはいないのだと、そう考えるとなんだか切なくてたまらなくなってしまった。
切なくてたまらなかったのは、父が悲しむ姿をまったく見せなかったからだ。祖母が亡くなる前の一週間ほどは、いつ何が起こるかわからないからと言って、親族で交代で病院に待機していた。その間も、わたしの父は仕事をしながら合間を縫って、もう意識はない祖母の様子を見に来て、また仕事へ戻っていった。
本当は仕事なんかほったらかして、ずっと傍についていたかったのではないだろうか、そんなことを言ってももうどうしようもないことだ。

思えば、父が感情をあらわにする姿をほとんど見たことがない気がする。そもそもの性格なのか、一家の大黒柱としての自負がそうさせているのか。わたしは自分の父親のことを、何も知らないのだと気付いた。
父の涙を見たら、わたしも泣いただろうか。一家を支える立場である父が、「息子」として涙を流す姿を見て、愛おしく思うことができただろうか。人間らしく感情を表す父を見て、彼のことを少し知れたような気になっただろうか。それとも、「父親らしさ」を手放したその姿を見て、軽蔑しただろうか。がっかりしただろうか。
まだ先のことであってほしいけれど、次はわたしの番なのかと、ぼんやりと考えた。親が亡くなったとき、わたしも誰かの親になっていたら、その前で「子ども」として涙を流すことはできるだろうか。到底想像もつかないけれど、今願うのは、どうかその日が少しでも先でありますように、ということだけだ。

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「親の涙」への3件のフィードバック

  1. お葬式のときに、遺族がしなければならないことの多さはびっくりしますよね。私も驚きました。あの忙しさがないと、人は立ち直れないというか、考えすぎて頭がおかしくなるのかなとも思いました。やっぱり男の人の泣かない感じは頼もしくもあり、切なくもあり。なんとも言えないですよね。

  2. 自分は生まれたときすでに父方の祖父母は亡くなっていたので、父のそういった姿を見たことはないが、もしその場に立ち会うことになったなら人目もはばからず泣く父の姿を見たいと思う。好奇心とかではなくその光景が重要なのだと思うからである。
    だがしかし、葬儀の際の遺族の慌ただしさは圧倒的なもので、よく言われるようにそれらがひと段落して落ち着いたころに、やっと死を理解できる段階に入るのであって、そうなってくると親父の涙を拝むことは難しくなると思う。

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