脳みそ洗濯機

 

夢のなかで夢をみました。現実ではありえないことが起きて、跳ね起きたら現実的な世界がひろがっていて、でもまたおかしなことが起きて。目を覚ました先には、現実がどうしようもなく横たわっていました。

その時思ったんです。もしかしてこの世界も夢、だったなら。

 

空ってきれいですよね。晴れた日のあの青くて眩しい「感じ」、夕焼けのあの淡い橙赤色の「感じ」、夜空の深くて蒼くて昏い「感じ」、その「感じ」は「クオリア」と呼ばれます。
光は電磁波の揺らぎ。その並び、スペクトルを人は色として捉えます。
その感覚器官である視細胞、そして視覚処理を行う前頭葉は人によって感受性が異なります。同じものは一つとしてありません。
つまり似通った「クオリア」を持っていたとしても、ひとそれぞれによって見えているものは多かれ少なかれ異なる。
あなたが見ているその空は、あなた以外には見えないいろをしているんです。

そう、同じ景色は絶対に見れない。

 

 

今回紹介するのは同人音楽のフィールドで活躍する女性ボーカリスト茶太による『睡眠都市』『あさやけぼーだーらいん』2枚のアルバムです。
茶太さんと言えば、『CLANNAD』の「だんご大家族」で知っているという方もいるのではないでしょうか(世代違いだったらごめんなさい)。

 

 

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『睡眠都市』はその茶太さんと『ひぐらし』一期EDの「why, or why not」を作曲した大嶋啓之氏がタッグを組んだアルバムです。

 

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『あさやけぼーだーらいん』は茶太さんをボーカルに据え、『ひぐらし』二期ED「対象a」のbermei.inazawa氏など指折りの同人音楽家が参加したCDです。
余談ですが、このメンバーは後に『而立 〜さよなら20代〜』というアルバムも制作しています。この『而立』も相当な名盤です。

 

 

軽く紹介も終わったところで、アルバムについてざっと書いていこうと思います。

まず『睡眠都市』。キャッチコピーは「眠る街と眠れない人びとの話」。
見事なことにこのアルバム、自殺の曲しかありません。収録曲数は7曲ですが、そのすべてにおいてテーマは「自殺」です。
橋の上からの飛び降り、ロープに首をかけた首吊り、引き金に指をかけてピストル自殺、そのほかいろいろ。自己否定や死の衝動に満ちています。
「先を行くひと」「後を追うひと」といったストーリー展開もあります。もちろん、自殺曲ばかりなだけに行き着く先には絶望しか残されていませんが。

 

表題曲「睡眠都市」はその集大成とも言うべき存在で、心地よい歌声と音色にいつまでも聴いていられそうです。
哀愁漂うメロディと茶太さんのウィスパーボイス、さらに感傷的な歌詞と非の打ち所がありません。

 

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また、透明なイメージを意識した歌詞カードも素敵です。
曲調も歌詞も暗いのに、それでいて透き通るような清涼感をもつこのアルバムにぴったりです。

 

いっぽう、秋冬の長い夜のなかひとり夜明けを待っているイメージを持つ『あさやけぼーだーらいん』。このアルバムで歌い上げられるのは、「世界とわたしのボーダーライン」。
完膚なきまでに救いのない『睡眠都市』ほどのうしろ暗さはなく、全体的にポップな曲が目立ちますが、時間帯はあくまでも夜明け前。
その内容はやはり内向的かつ自省的なものとやっています。

 

特筆したいのは、数々の楽曲のなかでも異色の存在である「メメント・モリ」。
作曲はbermei.inazawa、作詞はinterface(「why, or why not」「対象a」の作詞家)と内省的なサウンドを得意とするメンバーが揃い踏みです。
「死を想え」というタイトルにたがわず、恐ろしくも儚く、美しくも翳りをもつ、望みの失われた甘美な痛みに満ちた世界が描かれます。

 

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こちらの歌詞カードは水彩画をちりばめた12ページのブックレット。正直これだけでも楽しめます。

 

 

うん、もう抑えきれないのでぶちまけちゃいます。この2つのアルバム、最高です。
「死」というテーマが持つ恐ろしさや自省が放つ暗さは切り離せないけれど、その感情は純粋で透明で、繊細かつ傷つきやすい。
頭の中をぐちゃぐちゃにかき回して、まるで脳みそを洗濯機に放り込まれたような感覚。心の洗濯なんて生易しいもんじゃありません。

『睡眠都市』の登場人物ふたりがお互いの違いを半ば諦めながら受け入れているのに、最後は惹かれ合うように同じ軌跡を辿るというのも狂おしいほどに切ない。
世界という単位を構成するのは最低でもふたりいればじゅうぶんです。でも、そんな小さな世界とも断絶されている。
果たして、ふたりは死によっても同じ光景を望むことができません。その苦しみが胸を打ちます。

薬を飲まなくたって、手首を繰り返し傷つけなくても、なんにもひどいことなしに、空想のなかで擬似的に自殺を体験することができる。あるいは、死を願える。
創作の世界は偉大ですね。救いそのものにはならなくても、慰めとすることはできます。

自分をも含むすべてを否定することにより得られる平穏がこんなにも安らかで、居心地のいいものなのなら。そんなことも考えます。

 

 

でも何より心に響くのは、アルバム全体を包む、傷ついたひとの傍らにそっと寄り添うような優しさ。
おかげで夢でもみているかのような心地がします。それは例えるならば明け方、昇る日差しに目が覚める前のまどろみ。

光と闇のボーダーライン、その先にひとはなにを見るのか。
その答えは、あなたが望むままに。
ふたつのアルバムを聴き終えて、そんなことを感じました。ただひたすらに素晴らしかったです。

 

 

 

さて、今回で課題の提出数も10を数えました。
課題はいちおうひとり8回となっていますが、これはあくまでも目安で、これより多くても少なくてもかまいません。
使える道具を増やして、少しでも毎週書くことが当初の目的でしたし、あとはお気に召すまま、お任せします。無闇にたくさん書けばいいというわけでもありませんし。

 

3月ももう終わりですね。いい春休みを過ごせましたか?
4月からはスタジオに新メンバーも参加します。また、1年生も入学してくるということで楽しみにしています。改めてよろしくお願いします。

 

最後に。もし今回の記事で茶太さんのアルバムに興味が湧いた、という方がいましたらぜひお気軽に声をかけてください。それではまた。

新世界より/春課題②/θn

 「遠き山に日は落ちて」という曲。これを耳にすると今でもなんとなく、あー帰らなきゃなぁみたいな気分になります。あ、タイトル聞いてどんな曲か浮かばなかった人はYouTubeとかで検索かけてみてください。多分絶対一度は触れたことがあるはずなんで。多分ですけど。で、その気分の理由は結構明確なもので、私が住んでた町では夕方の5時になるとこの「遠き山に日は落ちて」をバックに小学生へ帰宅を促す町内放送がかかっていたからなんですね。肝心の放送の方は音が大きいからか、スピーカーが悪いからか、理由はともかく音割れが激しくて何言ってるのかわかんないもんだから、曲の方ばかり耳に焼き付いていくんです。まあ中学高校と進学するに連れて町外の学校に通い始めたり、部活動で遅くなったりなんかして5時にかかるその放送は聞くことさえなくなっていくんですけども。町をおいて自分が変わっていくっていう、そういうさみしさとかは感じるひまもないままに。たまにテスト週間とかで家に早く帰ったりすると、窓の外から聞こえてくるそれに懐かしい気持ちにさせられたりして。もう5時か、って思うと同時にまだ5時なのになんて反発してた自分がずっと遠いもののように感じられます。まあ現に随分昔のものになりつつあるんですけどね。
 ところがどっこい夕方になって帰らなきゃって思うのは、なにも子供だけじゃないらしいのです。ちょうど夕方のワイドショーで特集をやってたんですね。それによると認知症の人が徘徊する理由の1つにあるそうです、帰宅願望が。ここで私達が理解しておかなければならないのはなにもそのような帰宅願望をもつのはデイサービスを受けていたり介護施設に入っている人だけでは無いということだそうで。つまり自宅で介護を受けているのにもかかわらず「家に帰りたい」と言い出し、終いには家からふらふらとどこかへ、その存在しない家を探して外に出てしまうのです。特に言語に難があったりする場合には、周りはどうして外に出ようとしているのかわからず介護の上でかなり困ってしまうとかなんとか。介護ってこんなに大変なんだよと伝えるための特集だったけれど、なんだか帰宅願望のほうに気をとられてしまったのでした。年をとっていくと一周回って子供の頃の感覚に立ち返るというけれど本当なのかもしれないな、なんて。
 と、ここまでいっておいて何なのですが私もふとした瞬間に「帰りたい」と言ってしまう時があったりします。みなさんもありませんかね?ありますよね?私たちは一体どこに帰ろうとしているんだろうなぁ。幼いころ住んでいた家か、将来自分が築いていくであろう家庭か……。いつまでもいつまでもどっかに帰りたいってそう思うならそんなに虚しいことって無いよなあなんて思ったりもしますね。生きてるうちにこの帰宅願望がかなえられることは無いのかもしれないって、そんな気がしてしまうのです。

虚構に現実/春課題4/温帯魚

偉人の伝説というものは時代を超えなにか人を引き付けるものがあります。例えば、ナポレオンの睡眠時間やアインシュタインの舌を出した写真に対する逸話、織田信長の父の葬儀の行動など。彼らの勤勉や奇行は成し遂げた者と成し遂げられなかった者たちの理由となり、感動や畏怖と共に我々に何かしらの(しかし恐らく我々に一生縁のない)啓示を与えるものでもあります。
その根拠は以下の通り。彼らは成功し、それゆえ間違っていなかった。なんと純粋なロジック!

さて、たまにはいわゆる名作を読もうと思い立ち、サマセット・モームの「月と六ペンス」を読みました。チャールズ・ストリックランドという名の天才画家の生涯を、彼と奇妙な友情関係に結ばれた主人公が描きだすという伝記小説です。機知にとんだ会話やパリやロンドン、タヒチと言った舞台となった場所の表現、そして何より芸術や愛に対する深い考察が読者を物語に没頭させます。
この物語の象徴的なシーンを挙げるとするならば、粗忽で反社会的だがどこか原始的な魅力を持つストリックランドと、平凡で頭は悪いが慈愛と確かな審美眼を持つストールヴェ。そしてストールヴェの美しい妻であるブランチをめぐる三角関係でしょう。男と女の関係と美の価値観が絡み合った顛末は、しかし起きるべくして起き、そしてあるべきところに収まったようスッと理解できます。このシーンの最後に、ストールヴェがストリックランドの絵を称賛し、その話を聞いた主人公が初めてストリックランドの絵を見るというエピソードが入るのですが、恐らく作者が最も書きたかったところはここになるでしょう。価値の不安定さとでも言いましょうか、全体と個人の貢献など様々なことが考察できます。

文章の中で作者はストックランドを描くバランスにかなり注意したのでしょう。実際に字の文でもストリックランドの生涯は世間一般が思い浮かべる天才のそれではなかったと明言しています。我々の中にも偉人の片鱗がある、ということは信じがたいですが、しかし隣人に偉人がいるかもしれない、というのはなんだかんだ真でしょう。主人公のように、その偉人に影響を及ぼすように生きれれば、と結論にさせていただきましょう。

さて、文章では絵を見ることはできませんが、しかしストリックランドがゴーギャンを基に書かれていると知るとまた感じることも変わりました。現金と見るべきか、当然というべきか。皆さんはどう思われますでしょうか。

人間見てくれが一番大事/春課題③/mdegonth

mdegonthです。
最近は納豆をおかずに豆腐をつつく生活です。
皆様はいかがおすごしですか。

本日、後輩の新勧公演の稽古の合間、ビラ配りを手伝ってきたのですが、新入生ってあどけないですね。一目で簡単に判別ついてしまうものです。
僕もあんな時代あったなあ、ということを思い出しつつ、「あれそういえば去年の学科交の日、校内を歩いていたら新勧のビラ間違えて渡されたし、なんならアメフトの人に勧誘受けたな」ということを思い出しつつ、未だイモイモしい僕は1人勝手に落胆して、本題に入ります。

先日、桜木町にある青少年センターという場所で、第十三回神奈川演劇博覧会というイベントがありまして、実は僕も脚本・演出という形で参加してまいりました。

「神奈川演劇博覧会」は神奈川県演劇連盟を主催として、今回で13年目を迎えるイベントであり、複数の団体(今回は11団体)が50分間の芝居を上演×2、それが3日間か4日間かかけて1日3団体もしくは4団体が上演し、さらに出入りが自由で、ああ、もう説明下手故にこの辺で概要は投げ出そうと思います。あ、入場無料でした。

コピーには「あなたの知らない演劇がある」、と。僕は普段コメディー集団の公演にしか足を運ばないので「まあ、そりゃあるやろな」と思いながらも全団体拝見させていただきました。

蓋を開けてみると、コメディーを上演した劇団が多数。とはいえ、僕らみたいにドタバタナンセンスパワーシュールシンギングミステリー一発芸ノスタルジックコメディ(訳:詰め込み過ぎのコメディ)をしている劇団は無く、というよりもコメディという大枠で囲ってしまえばそれまでなんですが(当然の事を言いますが)それぞれの劇団がそれぞれの色の芝居を披露しておりました。

さて、「インプット」ですよね。インプット。

その演劇博覧会で僕はついにお初に生でお目にかかりました。
「パントマイム」です。
噂にはきいておりましたが、まさか本当に一言も喋らないとは。

今回拝見しました、郷まいむシアター様。
50分で3作品、一人で物語を紡ぐお話もあれば、言葉を発さずに複数人で会話するお話もあり、それぞれを見ての僕の感想は「ああ、この人たち、生きてる」でした。

稽古場などでよく、「芝居上の嘘」という言葉を聞きます。
「演劇は前提として嘘である」と。演出家さんがふざけて「だから君たち(役者)は嘘つきなんだ」と続くこともあります。
そしてその話は「ただ、それ以外は本当が良いね」と締められます。

「舞台上は、嘘の世界であるけども出来る限りその人間として生きたい」と思いながら役者をするときの僕は考えています。
その時に重要なことは「キャッチボール」なんです。
「言葉の」ではありません。もっと広い範囲で「アクションの」なんです。
言葉のやりとりばかりを気にしがちですが、僕はもっと身体に出る素直な反応・リアクションのキャッチボールこそ演技において重要だと考えています。

それはなぜか?些細なアクションが抜け落ちた芝居は途端に嘘になるからです。

それはなぜか?お客さんにとって不自然に見えるものになるからです。

それはなぜか?人は見た目が9割だからです。

横浜国大の先輩、竹内一郎さんの著書「人は見た目が9割」には、「言葉としての投げかけた情報は7%しか伝わらず、残りの93%はその他の要素により伝わる」(すみませんうろ覚えで引用しております)と書かれています。

つまり、パントマイムがパントマイムとして物語を紡げてしまえるのはたった7%のハンデしか背負っていないからなのです。へえ~。
その93%さえ大事にしていれば、舞台上になんと生きられてしまうのです。

逆に。言葉のやりとりだけを重要視してしまうと、その芝居は7%の完成度でしかないのですね(演出にもよるので一概にどうとかは決して言えないのだが)。
この点、もっと突っ込めばいろいろな分析が可能でしょうが、僕がパントマイムを見ていたとき、見た後の頭の中に詰まっていたものをひけらかしてみるとこんな感じでした。

さて、次回は「ダンス・ダンス・ダンス」。
「東京と音楽」・・・?なんのことやら。

嘘はだめだよ

前回自分で書いた記事を読み返してみて気になったことがあって、本を買ってきました。表題は『誇大自己症候群』。著者は精神科医の岡田尊司氏。
はじめに断っておきますが、症候群といっても精神医学においてこうした病名の精神疾患が存在するわけではありません。

 

この本で論じられているのは自我が承認されない/あるいは過保護・過干渉の状況下におかれたまま、固定化されてしまったケース。
すなわち、人格形成の時期において何らかの問題を抱えたまま、それを解消できずに成長した場合について、実例を挙げながら論じていく、という内容です。

 

 

前回の投稿を書き上げた時点では素直な感情を述べたつもりでしたが、自分で書いた内容にどうしても違和感を覚えてしまったのです。書いていることに間違いはないんだけど、どこか建前で塗り固めたような。
そんな時に目に留まったのが本書です。
色々と抉られそうなタイトルですが、不安を解消することを目指し、気合いを入れてトライしました。

 

それでは、さっそくですが結論から。

本書で語られていることに革新性はあまりありません。悪く言えば型にはまっている。
しかし、精神医学の観点から社会の抱えた病理を考察するという視点はとても参考になりました。
ともすれば難解にも思える精神医学も理解しやすく説明されており、その使われ方も適切です。

専門家に言わせると不満も出てくるのかもしれませんが、精神疾患について聞きかじった程度のズブの素人からすれば頷かされることの多い著作でした。
頷かされることが多い、ということはつまり、です。

 

 

筆者の主張をまとめるならば、誇大自己症候群とは

「既存の精神疾患のモデルでは測れないものの、種々の精神病的・人格障害的要素を持ち合わせつつ社会的・文化的に形成・浸透した精神病理」

で、現代社会のそこらじゅうに蔓延している病理だとしています。

 

具体的には、

①自己否定とそれを補填すべく肥大した万能感や誇大願望
②他者に対する非共感的態度
③現実感の乏しさや自己愛的な空想
④性格の二面性
⑤傷つきやすさや傷つきへの囚われ

が主な特徴です。耳が痛くなってきましたね。

 

 

本文中で、この症候群の形成要因は、正常な自尊心の発達段階においての通り道である「誇大自己」や「理想化された親のイマーゴ」が阻害される・過干渉を受けることだと述べられています。

「誇大自己」というのは幼少期の全能感とも言うべきもので、本来ならばこれが適度に満たされつつ、適度に断念させられることによって現実的な「自尊心」や「自信」がかたちづくられていきます。
これが過度に制限されたり、逆に過度に充足されてしまうと自尊心が形成されず、成熟した後も「誇大自己」が残ってしまいます。

いっぽう「理想化された親のイマーゴ」は、親や身近な大人を尊敬すべき理想的な対象とし、手本として取り込むことです。
他者に対する適切な愛情の結び方は、理想像をつくりだし、それに近づけるよう努力したうえで、他者を尊重することにより得られるものです。
ところが、その理想像が脆くも崩れ去ってしまったり、逆に支配的すぎてしまった場合にはこのイマーゴのみが過度に膨らんだものとして残り続ける。これが幼少期の精神の発達に悪影響を与えます。

 

 

さて。自分で言うのもなんですが、僕は幼少期から比較的「いい子」だったように感じます。
ここで言う「いい子」というのは「大人にとって扱いやすい子」「聞き分けのいい子」という意味です。
でも、本書で述べられているように、その裏側には「誇大自己」の制限や「理想化された親のイマーゴ」の崩壊が確かに存在します。
「自分が欲求を満たそうとすることで他者が傷つく」「尊敬していた存在がいっぺんにただの人間に見える」こういった経験には思い当たる節がありました。ご多分に漏れず、僕自身もこの病理を抱えているのかもしれません。
すこし自分を冷静に、客観的に見る視点が与えられた気がします。

 

もっとも、僕だけでなく、世の中で非常に多くの人がこうした傾向を持っています。それだけに現代は「自己の病理の時代」とも呼ばれます。
社会やコミュニティの誰もが、突き詰めてみればパーソナリティ障害・パラノイア・躁鬱病などの要素を少なからず持ち併せています。

たとえば、かつて精神病理として扱われていた躁的防衛(悲しみや挫折に直面した際、落ち込みや不安を回避するために行われる過度に強気なふるまい)は「防衛機制の一種」としてごくごく一般的になり、全世界を包み込みました。
この件に限らず、社会にはそんな例がゴマンとあります。

 

 

こうした現状の理由として一部では、

元来の日本人が伝統的に他者のなかに自己存在を見出していた(自己存在の規定を他者に委ねていた)のに、近代になって自立を求められたことが原因なのか?

との考えも述べられていますが、精神医学や心理学による研究も未だ発展途上のため、そのメカニズムの解明には至っていないのが現状です。
でも、医学がどれだけ進歩しようが本人に治す意思がなければ治るものも治りません。

 

 

これこれこういう生い立ちがあるんですよー、だから許してねっていうんじゃない。
良いところも嫌な部分も何もかも含めて自分自身、その人の本質です。そこからは逃げられない。
自己嫌悪に甘えて、自分を慰めるのは簡単です。でもそれをどうしようもない!と開き直るのは愚の骨頂。
こうして自分のダメなところ、弱点を学ぶことによって、幸運にも気づきが与えられました。
精神病理は当人の努力により修正・改善することが可能です。せっかく与えられたチャンスなのに、見て見ぬフリをするわけにはいきません。

自分に嘘をついても、問題を自分のなかに内包化するだけです。それではなにも解決しない。そこに救いはない。

 

 

 

では、どうすればこの状態から回復することができるのか?
それは自分の殻にこもらず、傷つきに打ち克つ力を育てることだと、筆者はいいます。

尊敬すべき理想像の回復、それに向かって努力することによる自立。そのためには「対話」が不可欠だとも。
ここでいう「対話」とは他者との対話、そして自身との対話です。
他者存在を認め尊重することは、正常な自尊心の回復に非常に効果的です。

 

そして自身の対話とは、「書く」ことだと述べられていました。
自己嫌悪や自己愛的な妄想に生きるのでなく、自分自身を冷静に見つめなおすこと。そうして現実の中に自身を見出していくこと。そこから全てははじまる、と筆者は結んでいます。
なるほどまずは書かなければいけません。

 

 

さて、本書はこうして自己啓発とは別のアプローチから正常かつ健康な精神の回復を提案しています。

本文中では他の解決法として「他者のために生きること」も勧められていますが、これも自己愛的な方向性に転びかねないので参考とするのは控えさせてもらうことにしました。以前「ほんとうの幸は、本当は非リアのためのもの」と書きましたが、まんまそんな内容だったので。それではあまりにつまらない。

 


 

昨日、Amazonで好きな同人音楽家のCDの在庫が復活したので思わずポチりました。試聴したところ好みにドンピシャだったので、次回はそちらのレビューを書ければと思います。それではまた。

底辺/春課題/なべしま

人間には優劣があります。
完全に個人的な偏見も多分に含まれていますが、それでは基準を設けてみましょう。
単純に財産があるかないか。財産がある(→それなりの教育を受けている)が優、財産がない(→勉強よりも仕事)が劣です。
かなり乱暴なくくりです。たとえ財産がなくとも立派な人はいますし、金持ちのクズもいますから。目をつぶっていただければ幸いです。

この劣の人間は数多くいるはずです。
しかし同じ時代に生きているのにもかかわらず、目に入ってはきません。
理想とされるのは貧乏になることではありませんから。
しかしあえてこの層に着目した番組があります。それがNHKの「ドキュメント72時間」です。

この番組はある一つの場所、たとえば教習場や休憩所などにカメラを据え、そこに訪れる人々を取材するというもの。
だから特に経済的弱者を狙っているわけではないのですが、やはり数が少ないためか、お金持ちなどを見かけることはあまりありせん。
自然、さほど裕福ではなさそうな人々を多く見ることになります。

今回私が見たのは「冬・津軽100円の温泉で」という回。
田舎の無人温泉か、少々寂れた銭湯のような場所を想像してください。ちなみに男湯のみの
取材となっております。

運送業や運転代行、農業経営者や90くらいのおじいちゃんが多く訪れます。
しょぼくれて華々しさのないうだつの上がらない見た目の人ばかり。
筋無力症を患った人。
坐骨神経症の人。
父親がおらず母親と三人暮らしの姉妹。
風呂場で入れ歯を磨くおじいちゃん。
のんびりと仕事人としての残りの期間を過ごすおじさん。
絵に描いたような社会的弱者。わざわざ辺鄙なみすぼらしい格安温泉に浸かりにくるくらいですし。
彼らは土にまみれながら生計を立て、生きるために働いている。単純な運転や土木作業を日々こなす。お陰で身体はあちこちガタがくる。どうしようもないのです。何も持っていません。自分の身体が一番の財産です。楽しみは格安の、特にこれといった設備のない温泉に浸かること。その温泉でも節度もなく床に座っていたりするのです。

彼らの人生に輝きはあるでしょうか。
一部分だけ取り出された報道だけが情報源ですが、特にそんなものは見られません。血を這うような人生をこなしているだけです。

しかしそれはまったく悪いことでも見下すべきことでもありません。人間なのですから。誉も希望もない。彼らは私が目を逸らそうとしている人生です。こうなりたくないと思ってしまった時点で、惨めなのは私なのです。

どうして人生に輝きを、生きることに意味を探すのでしょうか。
私は人間が動物から進化したことを認めたくない。
自分には意味があると信じたいし愛されたい。あなたがいて良かったと言われて、それを純粋に信じたい。
それをただ人間である彼らが見せつけてきます。お前は人間で、俺たちも人間なのだと。

こんな人生は嫌だ、人間のクズだ。
そう断じながら自分の価値を脅かされる。
72時間、おすすめですよ。

「ドキュメント72時間-NHK」
http://www4.nhk.or.jp/72hours/

僕が僕であるために/春課題③/ゆがみ

お久しぶりです。相変わらず寂しいです。しかも一番ひどい時よりは頻度は減りましたが、夜発作みたいな症状で寝付けない→やっと寝たと思ったらうなされるというコンボがよく決まります。辛いです。辛いときくらいせめてすっと寝かせてよ。そんな日々です。余談ですが、友達とワイワイすることも無いせいか世の中のことを考えるようになり、難しい経済の本を読んでもがいてたりします。春の課題としては書かないと思いますが、春学期以降は評論が多くなるかもしれません。

では課題のほうに入ります。今に不満があるのか子供に戻りたいのかは知りませんが、僕は昔のことを思い出して懐かしむことが多いです。今回は昔見たNHKの粘土のアニメが懐かしくなって(主題歌のメロディーを覚えていたくらいでタイトルすら覚えていなかったが)youtubeで探してみました。「ジャム・ザ・ハウスネイル」というやつでした。昔の作品ということで全部はなかったのですが、8割くらいは見つかりました。

内容については単なる普通の子供向けのアニメなので特記することはありません。個人的な趣味の観点からは、今は無きバンド「たま」の知久さんや石川さんが声優だと知って驚きました。割とどうでもいいですね。では今回僕が着目したポイントはというと、かたつむりたちの通う学校の先生の口癖、「~であるからして」という言葉です。この言葉は(細かく調べてはいませんが)結構な確率で出てきます。その言葉があることでなんとなく安心感が感じられます。

先ほど寂しいやらなんやら書きましたが、その原因は自分に自信がなくて人付き合いに踏み出せないのが大きいと思ってます。運動神経ないしコミュ力ないし不器用だし理解力ないし動きは鈍いしおっちょこちょいだし…。今でこそ慣れてきたのですが、人が普通に出来ることが自分には出来ないというのは悲しくてむなしいことです。でも、自分の個性(駄目さ?)が安心感か何かを生み出しているのであれば、ちょっと救われた気になれます。

ここで、僕がこの作品を探すきっかけになった主題歌ですが、Hi-Posiというアーティストの「僕でありたい」という曲です。歌詞は、「ネコがネコであるように イヌがイヌであるように 全身全霊 僕でありたい」というものです。「全身全霊」という言葉が最上級みたいな役割で「絶対僕であってやる」みたいな感じになってていいですね。周りを気にして生きてきた僕には心に沁みます。しかし、人と人とで社会を作っていく上では自分勝手さがゆえに迷惑をかけてはなりません。曲が「僕でありたい」と希望形になっているのも結局はそういうことなのでしょう。

前に述べたとおり、僕は自分をネガティブに捉えている部分が大きいからこそ、周りを気にして生きてきたのでしょう。とはいえ、人が出来ることを自分には出来ないことは社会の害としか思えません。何か役に立っているところがあれば教えてください。逆に許せないところがあれば教えてください。この世界の中で、僕が僕であるために。

 

https://www.youtube.com/watch?v=khHFLbVRh_0

 

けっきょく全部疲れるな?!/春課題④/エーオー

 どうも、エーオーです。
 課題をあと5つは春休み中に提出ということでね、あせっています。逆算しなれば。

 さて、公演が無事終了いたしました。
 いろいろ学んだことや思ったことがありました。ちょっと周りに影響を受けたので、自分の中に変化が起きました。徹底的に考えたことを徹底的にできたらきっとすごい人に一歩近づけると思ったのでがんばります。
 あと、アドバイスをいただいて本当にそうだなと思ったことがあります。
「発想はいいから、あとは関係性だね」
 そう、人と人との関係性。どのようなエピソードがあってどのように二人の関係が変化したのかを見せなければいけない。本当にその通りで、関係性が変化していくのをほとんど書いてこなかったなと思いました。まあ、そもそも短めの文章だと難しいしな。これは気づけて良かったです。
 では、課題の方に参ります。

★映画は受動的でなく能動的にみることと覚えたり★

 先日、ジャック&ベティで映画を見てきました。
 作品は「ディーン、君がいた瞬間」。ディーンというのは実在した俳優の名前で、20世紀最大のスターと称されたものの、わずか24歳で亡くなった人物です。この映画は没後60年記念作品であり、彼とその死の直前に帰郷を共にした写真家との交流を描いた物語です。
 率直に言うと、私はこの映画が好きだと思いました。なので言いたいことはいろいろあるのですが、ここでは一つだけ取り上げます。

 この映画を気持ちよく見れた理由の一つに、説明がくどくないということがあります。
 例えば、冒頭で写真家と老俳優が会うシーン。写真家は以前撮影をした者だと俳優に名乗り挨拶をしますが、俳優は曖昧な返事をします。二言三言交わして俳優が去ったあと、写真家の顔から笑顔が消え、眉間には少し皺が寄ります。
 さて、これを観れば観客は「ああ、俳優の方は写真家を覚えていなかったのだ。写真家はそのことを悔しく思っている」と分かります。
別に台詞で「忘れちゃったよ」とか「悔しいな」とか言うわけではありません。それがなくとも、観客は名乗った時の俳優の態度と二人の雰囲気、写真家の消えた笑顔からだいたいを推測できるのです。
つまり、映画というものは言葉だけでなく、画面――人物の表情やしぐさ、音楽の雰囲気、カットの仕方――で感情や状況を説明できます。
逆に言えば、台詞ですべてを説明してはいけないのです。
 この映画は、ぎりぎりまで説明を削ぎ、画面で物語を見せようとしている作品だと思います。むしろ、台詞だけ追っていたらストーリーは全く分からなくなるので、人物の挙動に注意を配らなければなりませんでした。その点で、かなり受け手の読み取る力を信頼している映画だったといえます。
 さて、画面に集中しているとき、ふと思いました。

 あれ? 映画鑑賞って娯楽でもあるはずなのに、これはめちゃくちゃ疲れるぞ?

 さて、画面上でディーンと写真家がやりとりをします。彼らはお互いをどう思っているのか。読み取る材料は以下になります。表情、言葉と言葉の間、雰囲気、etc. etc.……。そうするうちに私は気づいたのです。
これって、いつも現実でやってることと一緒だよな?!
 例えば飲み会、誰かが何かを発言したとき。周りの人のリアクションで自分は次にどう立ち回るべきかを考えます。Aさんは笑ってるけど、Bさんはなんか雰囲気が怖い。もしかして、あの発言でBさんは気を悪くしたのでは? ここは黙って様子を見るべきか、それとも明るく突っ込みを入れて場を緩和させることに挑戦するか。おーーっと、ここでどんどんBさんが喋らなくなってきた! どうするエーオー、これはどうにかして話の軌道を逸らさないといけないパターン……?!
 疲れる! 人間関係めっちゃ疲れる! つまり、当たり前に人間は普段から表情や雰囲気を読み取ることをやっている。だから映画でもそれを応用できるのです。 

 そう、ここで矛盾が生まれます。人が映画などの娯楽にはしる理由の一つは、疲れを癒したいからです。その疲れには人間関係疲れという項目もあるでしょう。人間関係に疲れたから、現実を忘れてひとりで物語の世界の中にのめりこみたい。そういう欲求のために映画を見ているはずなのに、知らずしらずのうちにまた結局、現実の人間関係とおなじような煩わしさを体験する羽目になっている?!

 つまり、私が感じていた疲れとは、現実での人間関係への配慮の仕方と同じツールを、現実から逃避した先であるはずのフィクションでも使わなければいけなくなっていることからきているのでした。
よって、疲れているときに見る映画は選ぶこと。及び、能動的に映画を見るのは体力がある時でないとキツイということが分かりました。

 そう結論を出したとき、私の脳内にはある思い出がよみがえりました――春休み中、初めて乙女ゲーをプレイしたときのことです。

 つづく

世界は軽い、薄くて軽い/春課題2/mdegonth

ご無沙汰しております。mdegonthです。エムデゴンスです。

インプット、がテーマである春課題。この春の僕は日々の生活の中で、自動的にインプットされることが多く、この21年間ではなんとも有意義な日々を満喫しております。

というよりかは、この21年間の僕が、いかに内に籠って経験を経験と認識してこなかったかを思い知らされたのですが。

そんな日々の記録を、今回はお送りします。

「東京」と「音楽」…、はてなんのことやら。

突然の出来事でした。掌からするりと零れ落ちたそれは、僕にとっては掛け替えのない存在でした。

「失くして気づく大切なもの」。使い古された言い回しですが、いざ自分の身に降りかかってみると不思議と口をついて出てしまうものですね。

情けないことに両親にも相談しようとしたのですが、出来るはずもなく。馬鹿な僕はふいに、ああ、そうだ、昔の恋人に連絡を取ろう、と思っても、「そうか、できないのか」なんて気づかされたりして。

どれだけ僕が頼り切っていたのか、を気づかされました。いざ、台所に立って料理をしようと思ったって、「あれ、俺何も作れねえじゃん。野菜を炒めて塩コショウでもふるか」で終わってしまうし、ある朝、目が覚めると遅刻の時間で。

バイト帰りにいつだってあった何気ない時間も、今は無いのです。なんだか知らないけど掌が寂しい。電車に吊られた広告をボーっと眺めて、最寄駅を目指す。

それから、本を読むのが好きになりました。空虚な時間をどうにかして埋めようと思ったのです。一日6分間の読書は人のストレスを解消させるといいます。新横浜―三ッ沢上町間、十分な時間です。僕はどんどん小説にのめり込んでいきました。

そして気づきました。

携帯は壊れたけど、いうて暇な時間はなんとかなる。

今思えば、携帯ばかりに頼り切っていた僕はいろんなものを見落としていました。

大事さは失くしてから気づくけど、だからこそ分かることもある。

みんな、原始に還ろう。

 

駄文とはこういうものを言うのですね。

嘘みたいなエッセイさ

学期中は昼夜逆転もいいとこな生活リズムでしたが、春休みに入って早寝早起きの習慣がつきました。
炊きたての白米と味噌汁に納豆、時々卵焼きか焼き鮭。朝メシちゃんと食えるっていいですね。

でも休日の朝にひとり、部屋で黙々と食事をしていても気が滅入ります。テレビでも見るか、と点けてみるとちょうど『ジュウオウジャー』という戦隊ものをやっていました。
やっぱり久しぶりにこういうの見ると懐かしいなあ……と思いかけたところで、ふと我に返りNHKにチャンネルを変えました。いや、正直小さいころからあんましこういうの見たことなかったわ。

 

思い返せば、戦隊ものやウルトラマンより魔女っ子アニメを見てる子供でした。
おジャ魔女とか。ドッキリどっきりドンDON。仮面ライダーとか一度も見たことないし。
特撮はもっぱらゴジラやガメラといった怪獣もので、そっちは昭和シリーズ含め全作品制覇という偏り方。オタクの片鱗は幼少期にも表れるものなんですね。

特に戦隊やウルトラマンが嫌いだったわけじゃないんです。おじいちゃんからもらった『ウルトラセブン』のVHS、『湖の秘密(エレキングがアイスラッガーでマミられるやつ)』はテープが擦り切れるほど見たし。
『おかあさんといっしょ』は欠かさず観てたので、多分生活リズムとかでしょうね。

 

そんな自分が珍しく見ていたのが、昆虫型3人のシリーズ『ビーファイターカブト』と『ウルトラマンティガ』でした。
うちウルトラマンとは『ダイナ』で早くもお別れすることになります。
ダイナの頭のツノ、あれダサくね?ダイナ仕様の光るこども用スニーカー持ってたけど。
コラそこ、ジェネレーションギャップとか言わない。色々と年齢的に仕方ないんだよ言わせんな恥ずかしい。

寒い自己紹介は終わったところで、ここらでひとつウルトラマンティガにまつわる思い出話をしたいと思います。
ビーファイターカブトは好きでしたが、あんまし記憶にないので。もしファンの方がいたら、ごめんなさい。

 

 

 

ある日、いつものようにティガを観ようとしていたときのことでした。前々からお母さんにカステラを買ってきてくれるようせがんでいた僕は、ティガといっしょにカステラを食べるのを心待ちにしていたんです。

でも、その日お母さんはカステラを買ってきてくれませんでした。僕は怒って泣いて、約束したのにひどいと言いました。
幼いころから泣くなと育てられたけど、数えられる数回のうちのひとつがこの時でした。

最初ごめんね、と言っていたお母さんも泣きわめく僕に怒ってしまい、軽く叩かれて「ムリなこともある。わかってくれないのなら、ずっとそうしてなさい」みたいなことを言われた覚えがあります。
お母さんは外へ出ていきました。僕はリビングのソファで目の前をぼやぼやにじませながらだまっていました。

二人のお兄ちゃんも遊びに行ってしまい、お父さんは今日も仕事。家には僕ひとりです。お母さんがなかなか帰ってこないので不安になりだしたところで、お母さんは帰ってきました。
ただいま、と言って台所に向かったお母さんは、皿になにかを乗せて持ってきてくれました。
泣いてたし、下を向いていたので目の前が見えなかったし、持ってきてくれたものが何だったのかその時は分かりませんでした。

ごめんね、ゆるして。そう言われて抱きしめられました。叩いてごめん。お母さんからそう言われました。いいよ、ごめんなさい。そう返して涙を拭くと、カステラがテーブルの上にありました。

ひとしきり抱きしめられたあと、カステラを食べました。ティガはもう終わっていました。カステラは美味しかったしお母さんが買ってきてくれたのは嬉しかったけど、あんまり楽しくありませんでした。

 

 

 

そんな遠い日の、母親との記憶です。

以来、自分がワガママを通すと人が傷つくという感覚が染み付きました。ひとを喜ばせるよりもまず傷つけないように、ひっそりと心に決めました。
泣いて駄々をこねることもなくなりましたし、反抗期もなかったように感じます。これらはすべて、おそらく幼少期に感じた罪悪感によるものだと思います。

以後現役の夏にコミケ(C80)に行ったとき、そして某私大と迷った末この大学に決めた時以外親にワガママは言っていません。

 

いまは特に漠然とした罪悪感もないし、罰を受けていると感じることもないのに。こどもの頃の体験って不思議ですね。
幼少期というただそれだけで、人を作ってしまう。人を変えてしまう。

でも、それが良いか悪いかは簡単には決められません。
少なくとも、僕はこれで良かったと思っています。これからもこうして生きていっていいと思っています。

 

さて。つい先日まで、当の両親がこちらに来ていました。
森下で深川めしを食べたり、浅草でどじょう鍋を食べたり。
食事の席にはお酒が欠かせません。熱燗を飲みながら、たくさん話をしました。

去年、はじめて両親の結婚記念日にお菓子を贈りました。両親と僕は三回りほど違うので、二人ともそろそろ還暦を迎えます。
あとどれだけ一緒にご飯を食べられるのか。祖父母も昨年をもって皆いなくなりました。
まだまだ親の脛をかじってばかりの僕ですが、いつかは親孝行できたらいいな。そう思っています。