言語と哲学と/春課題1/さくら

長らく更新してませんでした。お久しぶりです。さくらです。

ここ最近、働いて貯めたお金で真面目な単行本を買うことにはまっていまして。

ジャンルは……言語学。よく「語学」と「言語学」を間違えられるんですがね、これは全くもって別物です。中国地方と中国くらい違いますよ。

実際、語学にも興味を持ってて、マルチリンガルな人間を目指して勉強中ですが、それはさておき。じゃあ、言語学とはなんぞや、ってところから紹介していきましょう。

端的に言えば、語学は具体、言語学はそれを全体として研究する抽象的な学問になります。一口に言語学と言っても、その中には多数のジャンルが存在して、それぞれまた別の学問の知識を必要としながら密接にかかわっています。
要は、鉄オタの中に撮り鉄や乗り鉄がいて、彼らが電車とは別にカメラやダイヤグラムの計算などの専門知識も備えているっていうのと同じですね。

自分が興味を持っているジャンルは、「認知言語学」というものに入ります。言ってしまえば、半分哲学です。人が言語を習得して、外界とコミュニケーションを取る際に、その内容をどのように理解しているのか、とか、そういうことを考えています。

例えば、英語では、主語のあとにすぐ動詞がやってきます。日本人が空でとっさに日本語から英語に訳せないのは、こうした文法の大きな溝に起因していると思います。日本語では、基本的に動詞は述語として文章の最後に現れるので、いきなり「動詞から言う!」って感覚に持っていくまでに訓練が必要になるわけですね。

文章のもつ意味的に、動詞は大きなウエイトを占めます。例えば、日本語では動詞にはなっていませんが、英語の「be」、語と語をイコールで結ぶ役割を持つ語です。これを否定形にして文章を作ってみると……

日本語→ 「私は ○○ ではありません。」
英語→ 「I’m not ○○.」

日本語では、「では」という語を聞くまで、肯定か否定かわかりません。しかし英語では、「not」と聞いた段階で後を聞かなくても否定文なのはわかります。
自分の勉強しているドイツ語でもそうなのですが、この文章のつくりも相俟って、彼らは結論を言ってから論を組み立てていく傾向にあるそうです。
逆に、結論を後に持ってくる文構造をもつ日本人は、論を組み立てる際も(レポートなどではまず結論を言うように言われますけど)、「ああで、こうで、ああだから、○○だ。」と結論が最後にやってくるような構造になるそうです(英語では、「It’s ○○. Because… 」と書かれますね)。確かに言われてみると、日本人は喋っている時一番大事な部分は最後に言う傾向が強いのではないでしょうか。

これは遺伝ではなく、母語の文構造が個々人の思考法に影響を与えている、と考えてよいのではないでしょうか。

鶏と卵の理論になってしまうのかもしれないのですが、言語の特徴が国民性を生んだのか、はたまた、国民性が文構造をそのように変えていったのか。少なくとも、密接に関係する問題であるのは確かではないかなと思います。

春休みを通じて、もっと言語学に造詣を深めていけたらと考えています。またネタになりそうな話が見つかったらこうしてコラムのように徒然なるままに書いていこう。

P.S. 「語学」の本はどこの本屋でも割と大きなコーナーを持っているんですが、言語学のコーナーは小さいです。つい最近、どの辺りに言語学の本が並べられているのか発見しました。西口のあおい書店でも、東口の紀伊国屋でも、伊勢佐木町の有隣堂でも、言語学関連の本は宗教・哲学・民俗学などの近くでひっそりと扱われています。やっぱり、学問としては哲学に近いもののようです。

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