こいつはもうダメだ/春課題⑤/エーオー

初めに:本記事では、人に悩み相談をされたときに「じゃあ、その苦しい思いを物語にしよう!」とアドバイスをすることは、果たして事態を解決するのかということを、ヘルマン・ヘッセ著「車輪の下」を用いて考えていきます。

事件が起こったのは後輩に悩み相談を受けたときでした(一部事実を捻じ曲げています)。
その後輩には好きな人がいました。しかしその人に彼女ができてしまい、さらにその彼女は後輩の苦手な子だったのです。
なんであの子なの、とショックを受けている後輩。参考になることをついぞ経験しなかったエーオーは、なんとか有効な解答を繰り出そうとします。
「そっか、じゃあその苦しみはお話にすればいいんだよ! 物語は苦しみがないとできないからね!」

それから数ヶ月後、ようやくエーオーはあることに気づきます。
「私のあのアドバイス、相当クソなんじゃないか?」

★『車輪の下』あらすじ★
 自然あふれる田舎町で育った主人公の少年ハンスは、周囲の期待に答えるため必死に勉強し神学校に入学します。その後も勤勉さから模範生と言われるものの、徐々に心のバランスを失い成績は下降。教師らの態度は一変し彼を追い詰めます。ついに精神病を患い、退学して故郷で見習工として働きはじめるハンス。そして、物語は悲しい結末へ――。

★語彙のないエーオーによる、野暮助な内容まとめ★

「ちっちゃい頃から勉強ばっかさせすぎて、大切なものを失ったケース!」

要するに、教育と洗脳の狭間というか、疑いもせず学校側の理想をすべて正しいものとして受け入れて育った人間がいたら、それはある意味で奴隷です。
にも関わらず、その理想から外れた人間に対してのケアが怠られているという話でしょうか。
教育に関する永遠のテーマでもありそうです。未読の方はぜひ自分の目で確かめてください。

******************

 さて、今回はこの作品を私利私欲の為に、あえて作者の人生と結び付けて考えます。

 作者、ヘルマン・ヘッセって誰? という方。それでは聴いてください、ヘッセで「そうか、つまりきみはそういうやつだったんだな」

ウッ、突如胸に痛みが……! 
もうお分かりでしょう。あの国語の時間、全国の中学生にトラウマを植え付けた『少年の日の思い出』の作者です!

 さて、この作品はそんなヘッセの自伝的小説でもあるようです。
まず、勉強に打ち込み神学校に入学したものの退学、その後見習工になるという流れが実体験に基づいているようです。
(試験前のストレスと緊張の描写とかね。読んでて受験思い出して呼吸浅くなります。)
 
★シャイな優等生ハンス、自由な詩人ハイルナー★

さあ、こっから本題に入ります。
自伝的と言えど、作者との共通点もあれば相違点もある。
ここでは、物語に登場するふたりの少年に注目していきます。

 主人公のハンスは模範少年。入試では二番の成績を納め、その後も熱心に勉強に取り組みます。
はい、こっからが死ぬ人ぞ死ぬ性癖ポイント! みんな赤マーカーを用意してね☆ 
勉強を妨げるものは遠ざけたいと思う一方で、みんなが友情を育むのを見て憧れています。でも恥ずかしくて自分から人にむかっていけないから、誰か自分を引っ張ってくれたら――と願っている少年なのです。
で、でたーー! 超めんどくさいパターン! だが分かる、むしろそのめんどくささがいじらしいと言われる世界で私は生きていきたい!! 何度心で下線を引いたか。こういうやつが拗らせた末路が私!

 はい、いい加減自分と重ねるのはやめましょう。ハンスには無事に1人の友達ができますからね。

 ハイルナーは、またハンスとは正反対な少年です。勉強をクソだと言い(言うて学年で20番なんですけどね、彼)、詩を書いて自由にふるまってみせる、模索中の詩人なのです。
 とはいうものの、彼は自分の心を打ち明ける人を求めていました。時おり憂鬱の発作を起こしては、友達であるハンスに慰めてもらうのです。
 で、でたーー! 全世界の、創作者が「あ”あ”あ”わかるぅ……」とうめき声をあげるキャラ設定――! いやだからホントね!? どうして創作をやる人間はよオ!! 軒並み躁鬱が激しいのがデフォなんだよ!!?

 ともかく二人は友情を深めていきます。そこはぜひ本編にて。
しかし、次第に詩人を志すハイルナーは学校生活に耐えられなくなり、脱走を重ねてハンスより前に退学します。

★ヘッセはハイルナー?★

 あらぶりましたが話を本題に戻します。
 この作品はヘッセの自伝的小説だと述べました。
 ではハンスとハイルナー、二人の少年のうちどちらがヘッセなのか、という方向で話を進めます。

 結論から言えば、どちらもでしょう。高橋健二訳文庫版あとがきでは、ヘッセは自身の素朴な自然児としての性質をハンスに、詩人の側面をハイルナーにふり分けたのだろうとの解説があります。
 まあ結局、物語の必然ですよね。物語は作者が作る以上、すべてのキャラクターに多かれ少なかれ作者の魂の欠片みたいのが込められています。

 ですが、私は強引に「ヘッセはハイルナー」だと分類してみます。
 なぜなら、苦しみを「書く」ことで昇華する人である点で、ヘッセとハイルナーは共通しているからです。ハイルナーは詩人ですから。
 ここで新たな論点を立ち上げます。
 なぜ、「書く」ヘッセはハイルナーでなく、「書かなかった」ーつまり苦しみを書くことで昇華できず悲劇で幕を閉じたー人間である、ハンスを主人公にしたのでしょう?

 だって、ふつうは詩人として大逆転を決めた、ハイルナーの方を主人公にする気がしません?
 やれ大事なのは教育だ学問だと自由な精神を否定する学校。そんなお堅い連中に、主人公は学校を追われる。しかし諦めず、自分を信じて遂には詩人として大成功! 実際に彼は成功しているのですから、これ以上リアリティのある体験談はないはずです。読者は読んだときに、自分もこうしてみよう! と道しるべをえられるのでは?
まあ、そうなると一種の自己啓発本ですよね。

 でも、そうではなかったんです。
主人公は「書く」こともできず、教育と言う車輪から、逃れられずに轢かれてしまったハンスです。
 私はそこに意味があると思います。『車輪の下』が詩人ハイルナーの、創作者のサクセスストーリーではなかったことです。

つまり、そんなもんを書いてしまったら、悩み相談を受けた際に「そっか。じゃあその苦しみを物語にすればいいんだよ!」というポンコツな私のアドバイスとおんなじことになるのです。

★「書く」人と「書かない」人★

 幸せだけでできた物語はありません。主人公は必ず苦難に見舞われる。その苦しみに書き手はあらわれます。
どこにもぶつけようのない苦しみや怒りを、「来い、ぶっ殺すぞ!!」と作品に刻み付け昇華する。理不尽に対しても「今は大人しくしといてやる。いつか絶対殺すからな!」と、その場では気持ちを抑え、後で物語という計画犯罪を実行する。そうやって生きてる人間がいます。そして、たぶん少なくはない。

 でもやっぱり、誰もが「書く」人間ではありません。
 
最初から結論は出ているんです。
私の「苦しいことは物語にしよう!」という解決法は、書く人にしか効きません。
 
 もし、詩人ハイルナーが創作で道を切り開くサクセスストーリーだったら? ハイルナーの活躍する姿を見て、読者は自分のことのように嬉しいかもしれません。主人公のように報われる日を、信じたっていいじゃないかと。
 でも。そこにはひとつのラインが引かれています。

 それは自分が詩人ではないということです。
 詩人ではない人間は、どうしたらいいのか、報われないのかということ。

 不幸なんてきりがない。それを物語にするにも相当の時間と労力がいる。
 どうですか? 人に悩み相談したとき、例えば学費が払えず過酷なバイトをするもついに身体にガタが出始めた。一体どうすればいいのか……その気持ちを打ち明けたときに、「じゃあ、それを物語にしようよ!」と言われたら。

 やってられっか〇すぞ!! ってなりますよね。

そりゃ常に人と関わっているのだから、理不尽や悲しみや怒りがあっても、それをやり過ごさなきゃいけないことのほうがずっと多い。容赦なく進む現実に、いちいち落ち込んでられません。

 そうやって、書くことにも逃げずに、傷を誤魔化し心を擦り減らしながら、日々をなんとか生きてきた人の痛みを、ヘッセはすくいあげたのです。

 主人公は「書かなかった」ハンスです。彼の最後は幸せでも成功でもありません。
それでも、車輪に轢かれてしまった少年のそのセンシティブな苦しみや悲しみを、ヘッセは素晴らしい文学にしました。
その物語が、ハンスと同じく行き場のない苦しみを抱えていた人たちを「分かってくれる人がいたんだ」と解放したのです。

まとめ:エーオーと違って、ヘッセは書かなかった人の心も見事にすくいあげた。これを踏まえて今後どのように悩み相談に答えていくか考えていきたい。

参考:
ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」高橋健二訳 新潮社 1951

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