ノーガードで不定形/オレの文章/ノルニル

 

今回の課題はある種の決意表明のようにも思えるので、まず初めに断っておく必要があります。
僕の夢は人に伝えるための、できるだけ多くの人に伝わる文章を書くことです。
そのために常に意識しているのが、文章の読みやすさへの徹底です。

 

文量は過不足ないか。一文は長すぎないか。適宜改行されているか。修飾の順序は適切か。漢字とひらがなの配分、崩し方は違和感を生まないか。補足説明は簡潔かつ丁寧か。気取って難解な言葉遣いや用語を使うのではなく、出来るだけ平易な語彙で置き換えられないか。感情を表現するあまり、状況説明が不十分になっていないか。一文一文は必然性をもってそこに配置されているか。知識をひけらかすのでなく、共有できているか。読者が置いてけぼりにならないか。
いつもこういったことを頭に入れています。

 

他者に伝えることを目指した物書きの筆頭といえば、やはり記者でしょう。
記者にとっていちばん重要なのが、徹底的に主観を殺して、客観的な視点に立ち文章を作ること。これは責任を持って不特定多数の人間に発信する人間の義務であり、鉄則です。
だから、僕は僕なりのやり方で夢を実現するために、なんとしても自分を殺そうとしました。

まずは自分の感覚を読者に合わせて一般化。続いては読解に要する労力を最低限にするため、フラットな文章へと均していきます。
文章が出来上がったらプレビューを行い、誤字脱字等をチェック。内容に重複する部分がないかということもこの段階で確認していきます。
目についた問題点を修正したら改めて見直して、そこで投稿。投稿後も細かな表現などは修正しますが、基本的には以上がいつもの流れです。

 

もっとも、文章の書き方は人それぞれ。
自分が伝えたい相手だけを狙った、そういった閉じたコミュニティだけで通用する文章が書ければいい。そんな人も勿論いることでしょう。
それを理解した上で、敢えて言わせてもらいます。

人に伝えることを放棄した文章など無価値です。
そもそも文章とは、求めれば与えられるものでいいはずです。
しかし自己満足の果てに開き直り自己完結した文章は、一切の客観性を拒絶します。それは読者を求める文章作りにおいて、あまりに乱暴でエゴイスティックな行為です。
事前に筆者自身、もしくは特集されているトピック自体への興味がなければ、そんな文章はじめから読む気すら起こらないことでしょう。

文章が溢れかえるこの世の中において、読解に過剰な労力を必要とする文章など淘汰されます。代わりはいくらでもありますから。
そうして触れるきっかけさえ失われた文章は、そのままでは目指したターゲットに届かない。

 

さて。こうした信念を抱えた僕にとって、このような「自分語り」をすることは耐えがたい苦痛でした。
誰もが自分に興味を持っている?そんなわけあるか。だから、それだけに読んでもらうためにはまず、そのための最低ラインをクリアする必要がある。
ならば、ひとが読むに値する、ひとを読む気にさせるものを作らなくちゃならない。

 

これまでスタジオで僕の文章を読んできて、なにかが足りない!と感じた方がいるとしたら、それは正解です。
主観的に作った文章から徹底的に「自分」を削ぎ落として、客観的な視点を導入する。そうすることで、読者それぞれ独自の体験をしてほしい。
共感でもなく、反感でもなく。ただ、「こういうこともあるんだ」って。
読者自身がいま持っているものと照らし合わせながら、僕の作った、誰のものでもない文章からそれぞれ違ったものを受け取ってほしい。
そうした意図がありました。

 

だから、お話を作るのは怖かった。物語はあくまで読者の理想や欲望を意図して構想するようにしていますが、そもそも他者の欲望と自己の欲望と、そのどこに線引きができるのでしょうか?
自分が抱いた妄想には、少なからず自身の願望が反映されることは間違いありません。それを形にして叶えることは、ただの自慰行為にすぎないかもしれない。
それだけじゃなく、それはひょっとしたらとんでもない暴力にもなり得るんじゃないのか?

 

少し本題から逸れてしまいました。ここらで話を戻します。

多くの場合において、文章は人を救うのではなく、援けることしかできません。
だからこそ、僕の文章で少しでも多くの人を、一瞬でもホッとさせることができたら、それ以上の幸せはないんだ。
そんな思いでことばを紡いできました。

自分を表現したいと思わなかったんです。無闇に自意識を拡散することに何の価値も見出せず、それどころか嫌悪感さえ覚えていました。

 

 

でも。それでももし、他者が求めるのであれば、僕は何だって書きます。必要とされるのなら、何だって書けます。
他者の期待に応えること。これは物書きである前に、まず一人の人間として大切なことです。もちろん限度はありますが。

 

だから、どうか求めてください。たとえ泥水を啜っても、反吐が出そうになっても、僕は他ならぬ僕自身のためにあなたの望むものを絶対に絞り出してみせます。
僕は他者に望まれて存在したい。自分の身の回りの全てを受け入れられるようになって、目の前のひとが必要としてくれる人間になりたい。ノーガードで不定形、それが僕のスタイルです。

もし心のなかを覗きたいなら、どうぞご自由に潜ってください。深い海の底には光も届かないかもしれませんが、そこに嘘偽りはありません。
その上で僕が気に入らないのなら、あなたの望む形に作り変えてください。
不定形だから、殴っていけば思ったように形を変えていけるはずです。

 

 

僕がいちばん嫌いなのが、「本当のわたし」という言葉です。
笑っちゃいますよね。いついかなる時も、どんな姿形をしていても、自分は自分。
人によって態度が変わろうが、人前ではキャラが変わろうが、その時その状態がその人の本質、「本当のわたし」です。

自己から見た他者。他者から見た自己。そのどちらも不定形で捉えどころがなくて、それで当たり前。
それなのに、現代では自分のアイデンティティが安定しない、と嘆く人が大勢います。
でもそんなの自分で理解していれば、自分の中に揺るぎない芯があれば、それで十分じゃないですか?

 

なにがあったとしても、絶対に譲れないもの。それさえあれば、ひとはどんなときでも自分で自己存在を規定できます。
少なくとも、僕はそう信じています。これからよろしくお願いします。

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