ふわふわの/オレの文章/猫背脱却物語

出先を歩いているとふとミスタードーナッツが目に入った。セールや新商品の広告を見ていると、ふと昔やってたCMを思い出した。ポン・デ・リングをたてがみに纏ったポン・デ・ライオンが、崖の上で「がおー」と叫ぶ。可愛い。あざとい。ポン・デ・ライオンが吠えたところで人々は恐怖ではなく可愛さを感じる。その時、当のポン・デ・ライオンがどう思っているかなんて知らずに、人々は「わーかわいい」と言う。でもしかし、ポン・デ・ライオンがかわいいと思われてほしい保証なんてない。自分の中では勝手に「あいつは本当はもっとみんな怖がらせたいんでないか」と決めてしまっている。その上でのあの可愛さに、可哀想と感じる。

それで言うとあと出川哲朗。テレビに出てる時、クールぶって振舞っているそのアラを突かれて笑いになっている。結果的には面白いけれど、あれは本人が求めていたクールさとはかけ離れているのだろう。

「俺の文章」というテーマはそのまま「俺とは」という疑問に帰結した。思い返せば、思い返さずとも知っているのだけれど、特異な感性なんて持っていないフツーの子であり、周りのフツーじゃないほどに気を使ってしまう。周りにいるやつのフツーじゃないところばかりに目が行き、自分のフツーである部分を引き合いに出しては相手に対してのリアクションをとることに必死になる。

そんなんだから、周りからの自分の評価は少ない。低い、ではなく評価の母数が少ない。大人からは「本当に手間のかからない子ねえ」という、評価とも取れない評価だけはよくされた。今でもたまに言われる。

言われるだけだったのは、ずいぶん前の話である。それ故かはわからないが、俺の方向性はそこから芽を出した。手のかからない子だからこそ、発言で少しでも目立ちたいと思うようになった。言いたいことがあれば臆せず言ったし、そのための言葉の種類も増やしていった。増やそうというよりも、自然と言葉が出るようになっていった。あまり思っていない悪口も叩けるようになった。

それをして結局手のかからない子になったかといえば、そんなことはない。アグレッシブな発言にに対して、それも含めた寛容さが相手に備わっているのか。発言している以上はリアクションというか、それに対する印象が少しはあってほしいとは思うけど、「はいはい、吠えてるね」というような、柔らかい対応で横に流されている気がしてならない。がおーと吠えたポン・デ・ライオン、クールを目指した出川哲朗のように、自分が目指した姿になりきれない。当事者になるとすごく恥ずかしい。目指しているビジョンが容易に想像できると、なりきれていない自分がその隣にいて比較されている気分になる。ポン・デも出川もこんな気持ちだったんだろうか、ポン・デに関してはただの妄想だけれど。

どこまでいってもそのレベルを超えない俺に、鮮烈な人を惹きつける文章が書けるのだろうか。確固たる信条とか、熱い想いとか、文章にぶつけられるのだろうか。人に評価されてなんぼの(だと思っている)この世界で、ふわふわした当たり障りのない文章に日の目は当たるのか。

それを考えると、エッセイストという職業はどうやって生きているのか不思議でならない。自分のこと、自分の身の回りのことを中心に据えて、どことなくほっこりとする文章をさらさらと書き連ねていく。きっとカフェのような広いウッディな自宅で、お気に入りのハーブティーなんか嗜みながら優雅に生きているに違いない。そこで紡がれる、決して鮮烈ではない言葉に多くの人が魅了されている。くそ、羨ましいな。
と、ここまで書いて自分が勝手に描いているエッセイストのイメージがさすがに出来過ぎだとは思った。だとしてもエッセイストのあの軽やかな文章には憧れを感じるし、とりあえずにしろ自分の目指すべき形なのかな、とも感じる。
俺の文章は、そんなところに行き着いたらいいのかもしれない。ふわふわ、でも人を魅了する。ポン・デ・リングのような文章。

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