スプリング・ストーム フォー・センテンス/オレの文章/エーオー

 リノリウムの床がぬめりと光る。苔むした洞窟みたいだと朔は思う。昇降口は暗い。二年生の今でもちょっと不気味だ。
 見つけた。階段の横にごみ箱はある。どきどきしながら近づいて、そっとポケットから紙を出した。
「なにやってるんだ!」
 驚いて朔は飛び上がった。低く皺がれた声が、がらんとした校舎に響く。
 用務員のトバリさんだ。背でオーブンの夕陽を跳ね返しそびえたっている。彼は朔が落としたプリントを広げた。『親子参加による草刈りのお知らせ』。
「ちゃんと家の人に渡しなさい」
 学校からの手紙を捨てるのが男子の間で流行っていた。教室のごみ箱から発見され、先生がひどく怒ったので、やめる生徒もいれば、見つからないように捨てる者もいた。
 でも。でも、朔が捨てようとしたのは今日が初めてだった。それにどうせ草刈りには行かないし、捨ててもいいじゃないか。なんで自分だけ怒られなきゃいけないんだ。そもそもなんでそれが悪いんだ。眼がじんわりとする。
 そんなことは、言えない。
 唇の内側を噛みながら、朔はランドセルに手紙を入れた。「さようなら」には返事をせずに、教科書と筆箱にごとごと追い立てられながら走った。

 青いジャンパーの懐に右手を隠し、きょろきょろと辺りを見回して進む。誰にも見つかりませんように。冷たい風が、ヒリヒリと頬を焦がした。もうすこしだ。下を向きながら校門へ駆ける。
 ガチン!
 その音に、咄嗟に顔を上げた朔は後悔した。トバリさんとばっちり目が合った。大きな枝切りバサミを置いて、彼がこちらに向かってくる。
「手に持ってるもの、出しなさい」
 逃げようとする気持ちはぺしゃんこに潰れてしまった。それでも抵抗したくて、ジャンパーの懐に手を入れたままうつむいていた。土色の大きな手が手首をつかむ。おしまいだ。朔はのろのろと手の中をみせた。
 ぱあくりと、ふくらんだカマキリの腹は割れていた。ひしゃげた胴体のアンゼリカに、土で汚れたしろいあわがまとわりつく。
 トバリさんは少し固まった。声を、重い釣瓶をひっぱり上げるのに身体ががたがた震えた。
「ふ、ふんじゃって、うめなきゃって、おもって、」
 あっ、と思ったときには遅かったのだ。
よそ見をしていて足はすでに前に出ていた。卵の重い母カマキリは、いつもより動きが鈍いのだ。スローモーションで降りていく運動靴と、その底が、ちいさくてひたむきなものの、無数の悲鳴を壊した。
 硬くかさついた掌が離れ、乱暴に朔の髪をぐちゃぐちゃにした。
「黙ってないで、そうやってちゃんと言いなさい」
 ぼろっと、目から熱いみずがこぼれた。

 その後、スコップで木の根元を掘ってカマキリを埋めた。横でトバリさんは枝の切り口に薬を塗っている。11月のがらすびんの空気の中で見た彼は、前より恐くない。
もらったキャラメルが、まだ少し嗚咽の余韻でひくつく喉を甘さで焦がした。

「先生だれがいい?」
「うーん、こぐれ先生」
「だよね」
 隣の列で女子がこしょこしょと言う。今日から朔たちは三年生だ。新しい担任の発表が終わり、いなくなる先生の名前に移る。
あの先生いなくなるんだ。恐いからよかった。ね。淡いピンクのスーツが壇上へ上がっていくのをぼーっと眺めていた。
だから、次に起こることなんて考えていなかった。
『――えー、そして残念ながら、用務員の戸張さんが学校を去りました』
 えっ?
きいいーんと、マイクが歪んだ音をたてた。目と耳と手と体が瞬時に鋭利になる。
『今日の式には出られないとのことで、代わりに手紙を預かっています――』
 腹から下の感覚が、さっと消えたようだった。

 朔は歩いていた。校門までの道。日は隠れて、春なのに少し寒い。つま先を見て、歩く。青い靴の先を追いかけるみたいに。
 そのとき、空で乳白色の真綿がやぶれた。
 太陽を赤で描く人はうそつきだ。だって光は、あんなに白い。とろみのあるステンレスがあの桜に降り注ぐ。あの、蟷螂の孵った桜が、光にまばゆく輝きはじめる。
 強く風が吹いた。グレースケールの曇りの日、花弁は吹雪のように刺さる。ぶわっ。ミキサーにかけられて、地面に落ちた鱗もまわる。きれいと言うよりもっと。火おこしで舞い上がる新聞紙の残骸のように、仄かな頬色は消し飛ぶ。
 
『二度と、かっちゃんに会えないのね』

 遠い遠い親戚のお葬式の銀の盆の隅っこでひそひそ話す、骨の破片。
 その人に会ったこともなくて、ドラマでよく聞く台詞だなあとそれだけ思った。
 ああ。朔は初めて分かった。
二度と会えないとは、ほんとうはこういうことなんだ。
あの金色の陽の中の、皺の刻まれた横顔と、キャラメルの火傷がよみがえる。それが胸を焼いてどうしようもないから、そこで嵐が起こって、朔は。――職員室まで走った。

『戸張 匠様』
 頬を赤くして、先生に住所を尋ねる朔の姿が浮かぶ。
 緊張でこわばった宛名の封筒は、中に詰まった花びらで少し膨らんでいた。

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