舞台/オレの文章/Gioru

私が考えるに、書いた個人が文章中に存在しない文章というものはあり得ない。

 

著者がどのような環境で過ごしてきたのか、何に触れてきたのか。全く同じ経験を同じタイミングでしてきた人がいるはずがない。たとえ同時にその出来事を体験したからといって、今までの積み重ねから、考えることは変化していくのだろう。客観的に見ているつもりでも、そこには何かしらの偏見が存在する。普遍的という言葉は大多数に当てはまるのであり、少数には当てはまらない。行動している人と、その行動している人を見ている人が同じ解釈に辿り着かないことはよく起こる。それと同じである。

 

それでは私の文章とは何なのだろうか。

過去の文章をあさってみると小説系が多いことがわかる。

小説には、登場するキャラクターたちがいて、そのキャラクターたちは用意された舞台で動いている。それらは人間であったり、動物であったり、どちらでもなかったりする。

一見すると彼らは、用意された舞台で自由気ままに生活しているようにも見える。そこに観客(読者)を楽しませるような、あるいは興味を惹きつけるような出来事が存在しているかは分からないが、動き回っているのだ。

 

ここで、初めに私が定義したことを踏まえて考えてみる。

すると、この物語には私個人がどこかに隠れていなければならない。

ではどこに隠れているのか。主人公であるかもしれないし、主人公にかかわる人たちかもしれない。あるいは世界観そのものか。

どうやら私は自分以外の誰かに自分を語ってほしいようである。

空想の世界であれば、そこは現実とは乖離された世界である。現実ではありえないことでも空想の世界では起こり得るのである。

 

何か訴えたいのであればエッセイを、論文を書けばいい。

それは間違いない。直接的に相手に届けることができるし、何よりわかりやすいだろう。

でも、何を訴えたいのか分からない場合は?

私の場合がそれである。具体的に出た場合ならまだかける気がするが、漠然とした何かを表現しようとすれば、この指が全く動かなくなる自信がある。

 

一度、最初の言葉に戻る。書いた個人が文章中に存在しない文章などあり得ない。

それならば、物語にだって私個人は必ず含まれるはずである。キャラクターを生み出すのも、世界を作るのも私だ。そこには、今までの経験を積み重ねてきた私が存在し、周りから影響を受け続けた私が存在するのだ。

 

さて、世の中にはテンプレという言葉が存在する。いわゆるお約束というやつだ。これがなかなか厄介なもので、小説の場合では筆者の個人性を殺しかねない。殺し切ることは不可能でも誰かに似た量産品のような何かを生み出すことができる。これによって、「心に響かないね」などと思われるものだ。そんな文章ばかりを書いているということは、世間の大多数に属する“一般的な思考”というものに囚われているのか。だとすれば、それもまた、その筆者が通ってきた道なのだろう。“周りと同じ”道、“周りと同じ”空気。

別に悪いことではない。そういうテンプレに涙する人だっている。

 

ただ、それに疑問を感じたのなら。

 

もう一度。書いた個人が文章中に存在しない文章などあり得ない。

文章にはその人が出る。それをあなたが、この人は“こんな文章を書く人”と定義すれば、そのひとは“こんな人”となる。

私は一体どうなのだろうか。

 

舞台の幕は上がり、やがて彼らは踊りだす。

脚本なんてどこにもない。ただ、そこらに物は落ちている。

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