裏切る/オレの文章/仄塵

初めてこのブログに投稿します。仄塵です。ほのよ と読みます。キラキラネームではありません。

このブログによく投稿されるのは小説だと聞いたが、私は小説を書いたことがない。一度もあわ書き終わったことがないと言った方がいいかも知れない。大体人物、ストーリーを構想する段階で満足しちゃう、もしくは「小説を書きたい!」という衝動を感じた時点で満足できるのだ。

小説を書く時は一つのワールドが新たに作り上げられる。それ以外の論文でもエッセイでも、今我々のいる世界を再認識、再構築するだけだ。僕は小説を批判することができない。なぜならそれは一つの世界として成り立っていて、その中に生きている人間、動物、あるいは静止状態にいるすべてものがあの空間では客観的に存在している。そのすでに生成した存在は批判を受けることで変化したりはしない。「全然面白くない」と言っても、それはあの世界の上空に浮いている身として同じく神の視点を持っている作者に言うもので、実際にあの世界の秩序になんの影響も与えられない。ということは、小説は書き始めた時点で終わっているのである。

そもそも「批判」というのはなんだろう。大学入る前に理科ばっかり勉強して、与えられた知識は必ず正確的であり、違うと感じた時は、自分が無知すぎるか、間違っているかの二つの可能性しかない。大学の授業で「批判的リテラシー」という概念を知り、すべてのものに対し批判的見方しかできなくなった。結局その批判が合ってた時と、やはり向こうが正しかったという状況が半々で、自分が批判的態度を持った時点で他の人も自分を叩きに来れるという危険な位置に立たされているのだ。

物事を批判するにはやはり身の程知らずの精神が必要なんだ。

SNSで活発的である分よく炎上する。相手が目の前にいないだけで遠慮のかけらもない暴言も日常茶飯事ですし何より心のダメージが大きいのは普段仲良くしてくれてた「友達」だと思い込んでた人にボロクソ言われてお互いの世界から永遠に消えること。しかし最近気づいたのは、自分は時々わざと炎上しそうなことを書きたがる。ある程度の予想も出来るようになり、それを書けば「いいね」がいっぱい来るとか、それを書くとフォロワー解除がいっぱい出るとか。

だからわざと物議をかもす発言をすることや、あえて批判的なコメントを残すことは以前無意味で論理的に不可能だと思ってたがどうも合理性も持っている。逆にその予測を的中させた側がバカではないか。論争が起こりそうな文章に対してあえてベタ褒めしたり、一見それ以上の正論はないという文章に批判しまくることは最も面白いコミュニケーションの仕方だ。

思ったことを何でもつぶやいてしまうと同時に常に知らない人に監視される状況にいると、俺は自然と攻撃の態勢になる。すべての人は同じ立ち位置で情報を発信しているのに一部の「凄そうな人」の言葉を優先的に信じてしまう。その少しだけ味わえる世論を操作する快感は俺の140字未満の文章の暴力性を増していく。

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