朝五時のサンプル/嘘/エーオー

「しゅう、」
 冬の朝、体温をふりしぼって出した声は、お湯みたいにじゅっと広がった。
「おはよ」
「おはよ」
 まだ暗い道を街灯が照らす。ブーツのつま先から冷気があがってきた。すでに見えている駅を光の梯子が通過して、車輪の音だけ耳に残してがらんとした。
「寒いね」
「うん。今日めっちゃさみい」
「聞いて。マフラー忘れた」
「うわっ、かわいそー」
「ぜったい馬鹿にしたでしょ」
「してないしてない」
「嘘つけ! いいもん。歩いたらあったかくなるし」
「新陳代謝だね」
 ふっと笑うと、白い息が昇っていく。からだのなかに熱がともった。カツカツ響く靴底と、ぶうんと鳴る蛍光灯の音。

「だからもうほんと、向こうがなに考えてんのかわかんない!」
 言い切ると由奈は味噌汁をすすった。
「東くんさあ……。思わせぶりだなあ」
「ほんっとそれ!」
「ていうか、もう好きって言うしかないよ」
「うーん、でも玉城さんがなー。気まずくなるの怖いな」
「ゼミ内で三角関係って死ぬね」
「それね」
 お腹がいっぱいになると眠くて、由奈のマッドブラウンの爪をぼうっと見た。頭の痛みがぶり返してきて、眉間に皺が寄る。
「どした、灰李」
「んー、頭痛い」
「だからそれ片頭痛だって。病院行った?」
「いってない」
「あのさあ、」
 水を飲む。安っぽいプラスチックは、視界を濁してくれた。
「原因がはっきりしてるんなら、治すためになんとかしたほうが絶対にいいじゃん。痛いっていうだけじゃどうにもなんないよ」
「うん」
ほど近いテーブルで、男子学生の笑い声がおこった。由奈がそっちに気を取られてくれたから、私は必死で熱い眼球に力を入れて耐えた。

「別に解決してほしいわけじゃなくてさ」
「うん」
「それが出来たら苦労しないと言うかさ」
「まあ、友達もいろいろ考えてくれてるからそう言ってくれるんじゃん」
「そうだけど」
 傘を刺すのは面倒くさいけど、普通にしているよりいくらか暖かいのを知っている。朝の五時、雨に濡れたタイルの道はひたすら冷たそうに見えた。
「じゃあどうしてほしいの」
「なんだろ、ね」
 頭が痛いと言うことは、今日全然寝てないと口に出すことは、もちろん自分がぼろぼろで疲れてて、誰かにどうにかしてほしいのは確かなんだけれど。
「たぶん。ぎゅってしてくれるだけでいいんだよ」
 傘の骨の先がかしゃんと軋んだ。じゃまだなあ。
 今日が、雨じゃなかったらよかった。

『いつも聞いてくれてありがとね。今度、はいりの話も聞くからね!』
 駅までの道で携帯をふとみると、由奈からメッセージが届いていた。
 寝落ちする前のやりとりで、東くんと玉城さんが付き合うことになったと知った。由奈も大変だなあと思う傍ら、その場に自分がいたらと想像して心がひりひりもする。かさついた指で文字を打ち込む。
『私は、とくに悩みはないから、大丈夫!』
『そっか。じゃあ頼りたいことができたら頼ってね!』
『うん』
 この「うん」をカタカナで送りたかった。そんで「ン」の点の傾きを、四時と五時の間のどっちかわからない角度に調整したい。その場ではスルーされて何十年あと、私のいない世界で気付いて後悔してほしい気持ちもあるし、そのまま一生気付かれなくても私の願いはかなう気がする。
 いつもの場所に付く。白い光でぼうっとそこだけ明るかった。
「しゅう」
 シュウ。
 しゅうは、シュウマイのしゅう。
 冬の朝五時、時間も分からないほど暗い。その中でひときわ明るいのは開いていない弁当屋さんの前のショーケースだ。
 整列する弁当は冷たくて硬そうで、まるで食べ物の気配はない。それでも凛と立っていて、誰も見てないくせに。
 おはよう。おはよう。私はケースの前でつぶやく。大丈夫? うん、ありがとう平気。言ってほしい言葉だけ呟く。ひとりで。そう、ひとりだ。
 けっきょく、そういうことなのだ。してほしいことをしてほしい。そんなの相手は知ったこっちゃないし、期待して悲しくなるんだから、だったら自分で賄えばいい。
 ぴとっと額をくっつける。つやつやした白米に、自分の口元が反射した。
 耐えきれなくて、顔を覆ってしゃがんだ。喉の奥からせりあがってくるものを、唇をかみしめて必死に耐える。出られなくなった嗚咽が、耳に回ってぱたぱたと鼓膜を鳴らす。旗がはためくような音だった。
 だれにも頼りたくないよ。自分で自分をなんとかしたいよ。そんな夢をずっと見ている。
 蛍光灯がぶうんといった。

1 vote, average: 5.00 out of 51 vote, average: 5.00 out of 51 vote, average: 5.00 out of 51 vote, average: 5.00 out of 51 vote, average: 5.00 out of 5 (1 投票, 平均点: 5.00,  総合点:5  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「朝五時のサンプル/嘘/エーオー」への4件のフィードバック

  1. 登場人物の名前と関係性がイマイチ頭に入ってこず、シーンの移り変わりもサラッとしすぎて印象が薄い気がする。主人公と思われる女の子の心情描写も具体的なことが書かれていないので読者が察することを前提に書かれているようで若干分かりにくいと個人的に思いました!

  2. 嘘の表現が秀逸であったが、その分少女の心情がわかりにくく感じた。
    あとなぜ朝の5時なのか、シュウマイなのか、理由付けがあると読者が置いてきぼりを感じずに読めると思いました。

  3. どうしても登場人物の関係性が頭に入ってこないし、「灰李」という名前が凝りすぎてる気がする。
    最初の会話の最後に「新陳代謝だね」とあるがもっとしっくりくる表現がある気もする。

  4. 何故朝5時なのか、1限目からあるのだとしても毎日その時間に登校するのはおかしいのではないか、それとも毎朝の散歩が日課なのだろうか。細かいことではあるがそれが気になった。
    主人公の心情表現がよく、辛さは伝わってきたが、登場人物が少しわかりづらく誰が誰なのか一致させるのが難しかった。もう少しそれぞれの人物を細かく描写しても良かったのではないだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。