もうかれこれ15年近くは「やつ」を食べていない。

 

名前を挙げることすら恐ろしい、あのねばねばした臭い豆を。

嫌いなどというありきたりな表現では語り切れない、もはや精神的にアレルギー反応を示しているほどだ。学校の給食で出された日には、一人廊下で給食を食った記憶もある。

どんなに丁寧に石鹸を使って容器を洗っても、やつをかきまぜた箸を洗い忘れたそのかすかな臭いだけで判別可能だ。

 

いや、もはや臭いのレベルではない。やつの気配がするのだ。

 

だがしかし、生まれてこのかたずっとやつが嫌いだったわけではないらしい。大家族だった幼年時代は、料理の手間が省けることもあり好んでやつを食べていたと証言する母。(今ではにわかに信じられないが…)

結局食べさせすぎたのが最たる原因らしい。

 

そんな時ある事件が起きた。

何歳ごろの記憶だったか定かではないが、あれはたしか伊豆に住む知り合いの家に家族で遊びに行っていた時のこと。平然と何食わぬ顔で机の上に鎮座し、そのあきれるほどの臭いで、やつは楽しい食事の席を壊そうとしていた。

当時すでにやつのことがあまり好きではなくなっていたのだが、やつに対する気持ちを家族のだれも気づいてはいなかった。そしてもう一つの苦手なもの、「うなぎ」が食卓には並んでいた。(ウナギのほうは今なら我慢して食える。まぁ、高価なものだし我慢してまで食うほどのものでもないが)

 

ここで何を思ったのか、当時の少年はあろうことかこの両者を白米の上に乗せて一緒に食おうとしたのである。

当時の少年曰く、「嫌いなものと嫌いなものを一緒にすれば、好きになるかなと思って…。」

少年の論理は、要するに数学の世界だ。負の数同士をかければ、答えは正の数となる。

まさに天才的な発想で、目の前に広がる非現実を捉えようとしたのかもしれない。

が、その論むなしく口からキラキラとあふれ落ちる哀れな彼ら。

そこで少年は初めての挫折を味わった。

 

覚えている限りでは、それがやつを口に運んだ最後だったと記憶している。

 

 

 

話を少し変え、やつの何が問題かというと、まずはやはり臭いだろう。

友人にこの話をしたら、あの「匂い」がいいんじゃん、という返答がきた。

世の中にはとんだにおいフェチの人がいるもんだと、もはや敬服さえする。彼らにはあの刺激臭がたまらないらしい。

 

一方で最近では「におわなっ○○」という商品も開発されたらしい。

詳しくは以下のミツカンのリンクへ。(グロ注意)

http://www.mizkan.co.jp/company/csr/rd/niowanatto.html

 

見上げた根性である。そこまでしてやつを食べたいのか。

挙句クックパッドや料理番組では、「嫌いな人でも食べられる!」みたいなうたい文句を掲げている。大きなお世話だ。

 

ここでもう一つの問題を挙げてみる。それはやつが日本の一つの文化を作ってしまったことである。

 

朝食の場面には、こぞってやつが顔を出す。それは手間いらずで高い栄養価が取れるからだ。(栄養価が高いことは認める)

現代日本の忙しい生活が、「やつは朝」というある種のステレオタイプを形成したのではないだろうか。もちろんうちは夜に食べます、という食卓もあろうが、朝をイメージする人が多数であろう。

実際部活などの合宿で旅館やホテルに行くと、朝食には必ずと言っていいほどやつがついてくる。が、夕食の機会で顔を合わせたことはほぼ皆無といってよい。

この「朝食べる」という習慣が、どれほどきつかったことか…。疲れているからだに活力を与えるはずの朝食が、逆にその日生きていくだけの活力を奪っていく。朝食が洋食のパターンだとそれだけでハッピーだ。なぜなら、こちらとしても朝にはやつが出ると身構えているからだ。

年を重ね、酒を飲みだすと味覚が変わるというが、これから先やつを口に運ぶ日が来るのだろうか。

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「」への3件のフィードバック

  1. 納豆好きとしては臭いも気にならないし味も癖になるし、なんなら納豆のみで食べてやろう、そう思うくらいだ。
    ので納豆に対する嫌悪感、苦手意識は新感覚であったがひしひしと感じられた。いっそ嫌悪感を細々と読んでみたい。何がいけないのか、納豆。確かに朝は嫌だ。重たいし朝から口の中が不愉快にねちゃねちゃする。納豆トーストならまだ許せるが。ただし夜は足りないおかずを補うように腹にたまるし満足感を得られる。
    最後に少々の考察を挟むのなら、こういった納豆肯定派の意見を完膚なきまでに叩きのめしてもらいたい気もする。

  2. ところどころの()がいらない!本当にそればかり気になってしまいました。リズムを崩してしまっています。「少年」と三人称で語っているにもかかわらず、今ではうなぎは食べられる、みたいな一人称的文脈が入ってしまってはちぐはぐになります。()による後付けはこれくらいの長さですと1、せめて2つが限度です。それ以上になると、自分でツッコミかよ、という批判や、読みづらいといった意見が出やすくなります。また()の中も長いので余計に気になります。後付けをするなら簡潔に! このようなエッセイ風味の文章はいかに読者が詰まらずに読めるか、がポイントです。リズムを崩したりすると、小説よりも、先を読もうという気がなくなりやすいです。エッセイを書くときは、まずリズムや言葉遣いなど読みやすさを重視してみるといいのではないでしょうか。

  3. 自分も納豆は嫌いではあるが、自分は臭いよりも味が気に入らないタイプの人である。
    臭いだけでなく味に対する不満もあればより納豆の悪さについて伝わるのではないかと思った。

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