あの日にかえらない/どうなの?/ノルニル

     北九州・門司にある母方の実家を取り壊すことになり、このままでは家の中の全てのものが捨てられてしまうということで、祖父の形見として8mmカメラをもらってきました。その名もフジカシングル8-Z400。

     コイツは45年以上前の製品のため、そのままではさすがに動きません。そこで内部をバラして掃除して、すこしハンダを埋めてみたところ運良くレストアできました。
     記録機構が動くようになったので中を覗いてみると、フィルムポケットにはフジクロームの8mmタングステンフィルムが入っていて、しかもこれ、使いかけでした。当時のフィルムは一本あたりに撮れる時間がわずか2分40秒。フィルムは3割ほど使われていたので、だいたい50秒ほど記録されていることになります。

     この中にいったいどんな過去が収められているのか、とかもしかしたらこれを使ってタイムスリップする映画が作れるかも、なんて。そんな妄想を繰り広げているうちにふと、ある疑問を抱きました。
     すなわち、「過去へのタイムトラベル作品は近世以前に存在しないのでは?」というものです。これはなかなかユニークな思いつきだと感じたので、考察してみたいと思います。

 

     考えてもみてください。日本でも『浦島太郎』など、未来方向へ時間を跳躍するお話はありますが、過去に戻ってどうこうするというむかし話は思いつかないですよね。
     これは海外でも同様で、過去干渉を取り扱った作品(多くはSF小説)の流れが確立するのは近現代に入ってからだそうです。

     ちょっとした思いつきのはずだったのですが、この事実にはとても驚かされました。理論立った説明ができなくても、神の力でもなんでも借りて過去に戻る話ぐらいはあるかと思ったのに。「過去に戻れたら」と嘆く人はいましたが、それを空想の中でも実行に移さなかったのです。
     ちなみに、宇宙船で亜光速航行を行った際に生まれる、宇宙船と地球などの時間の流れる速さの差異はウラシマ効果と言われています。この辺りは『ドラえもん』の藤本先生あたりの大好物ですね。彼の作品だと『モジャ公』はキチったSFマンガなので割とおすすめです。

     話を戻しましょう。タイムトラベルものの金字塔といえるウェルズの『タイム・マシン』からして、未来へのタイムトラベルです。そして多くの時間ものにおいて提示される未来は、望みの失われたディストピア。『猿の惑星』はウラシマ理論の典型例でもありますね。

 

     過去方向へのタイムトラベル物語の起こりは、20世紀初頭のアインシュタインによる特殊相対性理論の発表ときっても切り離せません。以後、多くのSF作家が超光速理論・重力場理論などで論理的・科学的な説明を試みながら物語をつくりあげてきました。逆に言えば、そうしたSFが出てくる以前には、過去へ戻る話はほぼ皆無と言っていい状況でした。

     過去改変、またそれが与える影響というテーマがより具体的になるのが、映画で言えば『恋はデジャ・ヴュ』や『オーロラの彼方へ』など。これらの系譜は因果律との関連を深めながら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、また『バタフライ・エフェクト』で一定の完成を見ます。

 

     説明はこのぐらいにして、そろそろ本題に入ります。
     これまで述べたとおり、過去へのタイムトラベル物語は近代まで作られてきませんでした。
     まずそもそもの話、物語って突然ふっと降りてくるものではなくて、作者の積み重ねた経験や願望に少なからず関連していると思います。特に、あの時ああしておけば!という思いは、有史以来誰もが抱えるはずなのです。
     事実、そうした「後悔」の感情は確かに数々の物語を生み出しましたが、しかし「過去に戻ってやり直す」といった物語を紡ぎ出すまでには至りませんでした。かつての人々は、時間は絶対的であり、なおかつ不可逆なものだと信じて疑わなかったのです。
     これには事柄の時間的な連なりとしての、「歴史」という概念の有無が要因となるかとも思いましたが、歴史は古代エジプトの時点ですでに発明されています。ならば、その理由はいったいなぜなのか?

     今回ぼくはこの要因を、近代以降に訪れた物質主義の台頭の中に見出しました。これにより、かつては「神の御業」とされていた事柄が実際には因果律によって成り立っていたことだと考えられるようになり、それによって現在過去未来、全ての物事にあらゆる可能性を考える余地が生まれました。物事は必然でなくなり、因果と確率によって説明された。いわば「神は死んだ」わけです。
     こうした考え方が支配的となったのはごくごく近代に入ってからのことで、それは過去改変をテーマにした作品が出てくるタイミングとちょうど重なってくるのです。こんなのただの偶然、なんて言えるのでしょうか。

 

     と、まあここまでが前置きです。長々と失礼しました。結局ここまでの論展開をもとに何が言いたいかというと、
     「過去改変の物語ってまだまだ掘り下げようがあるんじゃね?」
ってことです。

     「今さらそんなの言っても、もう出尽くしてるから無理だろ」と叫びたい方もいるかもしれません。でもそれは、そのお話が既存の物語と同じアプローチを試みているから。
     先に述べたように、過去方向への時間旅行は近年に生み出された概念です。となると、他のテーマに比べれば手垢がついていない側面があるはず。
     それはつまり、かつて人々の心を動かした悲劇や喜劇のように、過去改変の物語のどこかに新しい切り口を生み出すことができるかもしれない、ということです。
     もしその切り口を求めることができたなら、相対論の発表時のように、文学界にパラダイムシフトを引き起こすことができるかもしれません。「過去のお話」には果てしない未来が潜んでいるのです。

 

     さて。このように、物語で過去を描くのはいいことです。もしかすると新しいものを生み出せるかもしれない、とても夢のある話ですし。
     ただそれに反して、現実で大切になってくるのは「いまを生きる」ことなのだとも、ぼくは今回考えたことの中から受け取りました。
     かつて人間は、今と変わらず過去を悔いていました。でも、その受け容れがたい現実を受け容れて生きていた。たとえ妄想の中でも、「過去に戻って失敗をやり直したい」と考えませんでした。
     辛い現実がそこにあるのならば、妄想に救いを求めても誰も責めはしません。でも、最終的に人間はこの世界で生きていかなくてはいけない。顔を上げて、しっかり現実と向き合っていかなくちゃならない。

     今のデジタルカメラには、たとえ失敗してもいくらでも撮り直すことができる機能があります。でも、そこで撮り直さないことを選びたい。だから、ぼくもこれから祖父の残した旧いカメラで、撮り直しの効かないいまを撮っていこうと思います。
     過去は思い出にしまって、いまの自分のために、時おり振り返ればいい。文字通り「温故知新」といったところですね。

 

     もしタイムマシンがあったら、皆さんは何を望みますか?
     それは過去に望むものか、はたまた未来なのか。挙げだすとキリがないかもですね。もちろん、現実には無理ですが。でも、創作ならそれができる。だからこそ、物語は人を惹きつけるのだと思います。

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「あの日にかえらない/どうなの?/ノルニル」への2件のフィードバック

  1. なるほど。考えさせられました。
    自分は、まず「過去改変」という行為自体が、タブー視以前の問題で、起こりうるはずのないものと認識されていたのではないかと考えました。つまり、最初に過去改変の概念を思いつき作品に取り入れた人間が、いわばコロンブスの卵的存在ではなかったのかと。

    未来はまだ起こっていないことなのでどうにでも改変できるが、終わってしまった過去はどうにもできない。だから過去に戻ることは云々と、固定観念から抜け出すのって実は難しかったのかもしれません。

    ところで、本当に過去に飛ぶ物語、なかったんですかね? 悪魔の証明ですが。

  2. 過去の蓄積が現在だし、現在を生きるために過去を変えるのは前向きかと。カメラの機能もあれば使わないのは勿体無いし、タイムマシンもその辺に駐車してあれば乗り込みたい。私は有るものはどうせなら使おうの発想なのだが、それはどうなのだろう。

    さて、文章についてだが、知識の面ではとても面白かったが、テーマ性の部分ではありふれたメッセージしか受信できなかったので、前半だけ面白かったです。

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