それでいいです。/どうなの?/仄塵

20回以上見た映画がある。挙句の果てには音源を抽出しそれを聞きながら宿題することもあった。それは『Mary and Max』というオーストラリア製作のクレイアニメで、アスベルガー症候群を持つニューヨークに住むマックスという男性と透き通った心を持つオーストラリアに住むメアリーという女の子がペンフレンドになる話だった。
アスベルガー症候群は主に人間関係における識別障害が起こる病気で、自閉症よりすこし正常な人に近い精神障害だと言われている。東大生の25%はアスベルガー症候群だと言っている人もいるが、この病気は理科の研究などに必要な論理的思考能力と学習能力が共に高いなどの才能も与えてくれるから一定的な説得力はある。ということはアスベルガー症候群を持つ人はただの変人扱いで止まることが多く、病気だと気づかれることは難しい。
この映画をある時期病的に繰り返し見っていた。現在はブームが去ったものの、時々には見たくなるし最後の部分を見て必ずぽろぽろと涙を流す。何よりも衝撃を受けたのは、マックスのセリフで、「精神科医は私の病気はいつの日か必ず克服できるって言ってた。しかし私はこの言葉が好きじゃない。私はアスピー(彼がアスベルガー症候群につけたあだ名)が好きだ。これを治すことはまるで私の瞳の色を変えようとするみたいだ」という言葉。高校生の自分にとって、正常な人間になろうとしない考え方はあまりにも斬新だった。またしも彼の病状は、人の表情を理解できない、人間社会の常識を備えていないといった深刻なものである。
先天の病気や容姿に対するコンプレックスに苦しませ、あまりにも辛い時は母と喧嘩してそんな自分を産んでしまった母を責めて、彼女はよく「自分自身を受け入れよう!」と言って対応した。しかしそれは簡単ではない。なぜなら一つの不幸を受け入れたら、また連帯的に複数の不幸が出てくる。完璧こそが全ての問題を解決する近道だと思っている。それに短所を受け入れることは努力を諦めることとに等しいと考えている。
「私は自分を受け入れようとしない自分が好きだ。たとえこれがもたらす精神的苦痛に悩まされてもそれは自分の選択であり、変わる必要がない」
「自分自身を受け入れる」はこういう解釈もできる実に都合が良い言葉。しかしこんな自分でも最近ひねることに諦めついたものが二つあり、一つは運が悪いこと、もう一つはSNSで他人を叩くこと。皮肉なことに両方とも苦痛を緩和できるものである。抱えきれない痛みに自分もようやく白旗を上げたのかも知れない。
自分を受け入れることは結局他人を受け入れることではないかと思い始めた。運の悪さに苦しむことは運の良い人が羨ましいから。他人を叩くことは他人の言動が気に食わないから。ある意味他人との比較や関わりを遮断してはじめて自分が描く自分がうまく成り立つ。
ということで最近身の程知らずな「どうなの?」は思わなくなった。もし第三者が私に尋ねていても、「それでいい」と平和に答える。それは自分に言っているのではなく他人に言い聞かせる言葉。この無関心を示すような考え方が自分を守る。逆に「どうなの?」て自分が問われたらブチギレするのかも知れない。
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「それでいいです。/どうなの?/仄塵」への3件のフィードバック

  1. ADHD、アスペルガー症候群などの発達障害をアイデンティティとしてしまうことは、トラウマによって自己を定義づけてしまうことと同じぐらい危うさをはらんでいます。自分を傷つけるはずのものが、何らかの形で自分にとってかけがえのないものになってしまう。これは非常に倒錯的で、一種のマゾヒズムでもあります。
    日本語の使い方は何ら問題ないのですが、表記や改行等を読みやすく工夫すると、内容がより頭に入ってきやすいのではないでしょうか。
    もっとも、これは自分で訂正するよりほかの人に指摘してもらった方がより効果的なので、他人の投稿を編集・改稿・添削するような制度もやってみたいですね。

  2. ビジュアルモードで編集すると、自動で一行飛ばしでの改行になるので、そうしたものを利用するとさらに読みやすくなると思います。意味と意味の間にある行間は、考える時間を読者に与える意味でも大事だと思います。

    内容ですが、ある種哲学的だなあと思いました。自己をそのまま受容することも、「自己を受容しない自己」を受容することも、結局は自己の受容になってしまうということは、考えているとどんどん坩堝にハマっていく気がして、面白いです。

    運が悪い、自分もなんですが、諦めがつけられないでいます。

  3. 他人あっての自分ですから、比較もしてしまうし、攻撃も止められない。かといって、じゃあ自分一人ぼっちになるかとなるとそれは本末転倒。まあ、たわいも無い悩み事ですよね。

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