「私」と『私』/距離/Gioru

人と人との心の距離とは何なのか。

 

自分と同じような趣味を持っている人がいて、近づく。よくある話である。

そこから話が広がって相手に親しみを感じることができる人も多いだろう。

自分は一人ではない、私の考えに賛同してくれる人がいる。

 

自分がありのままの自分でいられる相手というのは、どうしても手に入れたい存在なのではないだろうか。いくら一人が好きな人だって、何の支えも無しに生活していけるのか。誰からも認められずに生きていける自信は私にはない。

 

では自分を偽ればいいのか?

他の人に同調して、相手に親しみを感じてもらって心の距離を詰めようとする。

ひょっとしたら、このやり方をしている人は結構多いかもしれない。ただの偏見ではあるが。

そこには自分の存在を認めてくれる人がいて、自分の見ている世界の一部を共有してくれる。世界に自分は一人だけではなくなる。

 

でも、自分を偽る仮面を作り出した時点でそこにもう一人の「私」が誕生するのは間違いない。もう一人の私と相手の距離が近づいたとしても、近づきたいと思った最初の『私』と相手の距離は近づかない。

 

「私」は『私』だけど「私」はそこにいて『私』はそこにはいない。

 

別の視点からも考えてみる。

たまたま、本来の「私」を認めてくれる人がいてくれたとする。性別は同性でも異性でも問わない。「私」は同じ方向を向いて一緒に歩いてくれるその人をうれしく思うだろう。もっと近づきたいがために、相手のことを更に知って認めようとするかもしれない。相手も同じ考えをもって、似たような行動をとってくれるかもしれない。

 

それでもだ、相手は決して「私」ではない。似たような境遇であったとしてもあなたと同じ時間を同じように過ごしてきたわけではない。お互いの環境は違っていて、そこで同じ人間ができるわけがない。

 

だから全く同じ方向を向けるわけではなく、微妙にずれた方向を向いて歩いている。どんな微妙なずれでも、歩き続けていけばその差は広まるばかりだ。そのことには自然と気が付くだろう。だって、「私」ではないのだから。でも同じ方向を向いてくれる人が欲しいから、なんとかして軌道修正させようとする。あるいはしようとするかもしれない。変わった軌道は二人を近づけ、やがては離れさせる。

 

人と人との距離とは何なのか。

 

ある人は「私」に踏み込んでほしくないという人がいる。それは『私』が「私」を隠したいのか、目を逸らしているのか。いずれにせよ「私」はあなたとは近づきたくない人もいる。それが『私』のせいなのか、『私』を見てもらいたいのか。

 

詰めたい距離と詰めてほしくない距離。

目的地までの距離とは違う。

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「「私」と『私』/距離/Gioru」への1件のフィードバック

  1. 鍵カッコの使い分けだけでは伝わりやすさの面でまだ不十分なように感じます。おそらく、「私」『わたし』”ワタシ”など、いっそのこと表記自体から変えてしまった方が差別化が図りやすいと思います。
    本文中では私という一人称のみを使っていますが、「僕」「俺」「○○(自分の名前)」などを相手に合わせて自然に使い分ける人もいますよね(家庭内で母親が自分のことを「おかあさん」「ママ」という場合を想定してもらえるとわかるかと思います)。その使い分けという行為自体も、「自分」を役割のもとに分裂させるということなのかもしれない、と思い至りました。
    こうした思索は答えを出すことが非常に難しいのですが、考えることそれ自体からして楽しいですよね。

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