ぼーの/距離/ノルニル

     「ぼーの」

 

     兄のお古のランドセルを背負ってひとりで歩く帰り道、背中から呼びかけられて振り返るとレイだった。

 

     「だから、ぼのってなんやねん」

     せいいっぱいの抗議の意を込めて、口を尖らせて言ったけれど、当の本人はへらへら笑っていた。ほんとなんなんだよ。前に『ぼのぼの』のお父さんの真似か、って聞いたけど、その時レイはぽかんとした顔をしていたから違うんだろう。へんなあだ名だ。わけわかんない。少し気が抜けたような感覚に、ランドセルの肩ひもを両手でぎゅっと握っていたことに気づいて、すぐさま手を下ろす。

 

     「ぼーのはぼーのだよ。お前やっぱりおもしろいなあ」

     「・・・今日は、サッカーないん」

     「校庭がプレハブ工事で使えなくてさ。あ、パソコン教室増えるらしいぞ」

     「そうなんや。人、増えたしなあ」

     レイとは3学年しか違わないのに、彼はとても背が高くて。目を合わせようとすると、自然と見上げる形になってしまう。くしゃくしゃの髪の毛に、いたずらっぽい目つき。スポーツで日に焼けた肌。どれも、ぼくにはないものだった。

 

     「おいぼーの、下手すぎだろ。最初は無理に頭じゃなくて、低いところから始めていくのがいいよ」

     「そんなん言っても、上がってまうから仕方ないやん」

     「ならヘディングじゃなくて、胸トラからだな。胸張って、できるだけ真上にボールを上げるようにするんだよ。・・・おい、背中丸まってんぞ」

     おなかと背中の上のほうに手を当てられて、背すじを直される。初心者だから、とソフトバレーボールを手渡されてやってみるものの、どうにもうまくいかない。何度目か分からないぐらいボールを落っことして拾いに行くとき、規則的なリズムを刻むぽんぽんという音に横目でレイを見れば、足・胸・頭すべてを使ってサッカーボールをかち上げていた。

 

     「最高記録は4回か。まあ、また今度だな」

     「もう、ええよ。無理やわ」

     「そんなんだからぼーのなんだよ。ま、んじゃまたな」

     夕暮れに染まっていく住宅街に、少しノイズの混じった『遠き山に日は落ちて』が流れる。レイは林間学校の夜にこの歌を歌ったらしく、曲名を教えてくれた。きっとぼくも3年後には同じ歌を歌うのだろう。でも、そんな先のこと想像もつかなかった。

 

     学年が上がり、留守家庭児童会に入って、そこで友だちができた。25分休憩が始まるとすぐに校庭へ出て、キックベースを始める。思い切り蹴ったボールは、とんでもない方向へぶっ飛んでいった。時間がもったいないからダッシュで追いかけて、すると誰かがボールを止めてくれた。顔を上げると、レイだった。

 

     「おす、ぼーの友達できたか。よかったな」

     目を合わせた瞬間、早くて、でも正確なパスを送ってくれる。そういえば、レイと最近あんまり会ってなかったな。ボールを受け取るまでの間に、そんなことを思う。

     「ん。・・・てかぼーのってなんなん」

     「あー。ヴォーノって、イタリア語かなんかで”おいしい”って意味なんだよ」

 

     「う」に「゛」を付けられることを知らなかった。ひび割れた歌の名前もリフティングのやり方も友だちの作り方も遠い国の言葉も、なんにも知らなかった。それでも、君がくれた距離と時間を、ずっと覚えてる。忘れたくないよ。

 

     「あのさ!」

     ゆっくりと離れていく背中へ、必死に呼びかける。レイが振り返る。びっくりしただろうと思ったけど、その目はいつものように笑っていた。

     「ありがとう。うれしかった」

     絞り出すように言葉が、出た。その声はとてもか細くて、でもレイはしっかりと頷いて。今度こそ、さよなら。またね。あとすこし、ほんの少しだけ背中を見送って、ぼくは友だちのところへと全力で駆け出していく。

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