温度と、それを感じる/距離/猫背脱却物語

 この前平日に休みが取れた時、京急に乗って東京へ出かけていった。花の都大東京とはいえ平日の昼間の電車はガラガラで、空席の方が多い。悠々と座っていると、どこかの駅で女子高生くらいの少女が電車に乗ってきた。

 本当なら気にも留めないのだけど、少女は選び放題の座席の中から、あろうことか私の隣に座ってきた。座るやいなや、コクコクと居眠り特有の肩の動きが始まり、少女は私の肩に重心を預けて眠っていた。乗車口から近いところに座っていたし、何かに寄っ掛かって寝たい一心だったのかもしれない、と推測は多分に無限に可能である。ただ私の降りる二駅手前で何事もなかったように降りた彼女が与えた人肌の温度だけが強く印象に残って、考えるのはやめにした。

 字面に起こすとまあ気持ち悪いけれど、残っちゃった印象は仕方ない。一人で暮らしていると、自分以外の温かいものは大抵、誰かに温められたものばかりなのである。店員さんがチンしたから温かいお弁当、私がかぶっていたから温かい掛け布団。つまり、自ら熱を持つようなものに接することが少ない。えっと、だからつまり、人との触れ合いが少ない。レジのアルバイトをしている手前、本当はカウンター越し五十センチのところでお客様と接しているからそれは嘘になるのだが、それはカウントに入らない気がする。近いところにいる人が近しい人ではないのだ。

ただ、近くにいることで、初めてその人が近しいかそうでないかは判明する。

 視線を合わすだけなら画面の向こう側のアイドルとだって平気でできる。もっと言えばコンサートに「目線ください☆」とでも書いたウチワを持っていったなら現物でもなんとかなるかもしれない。それでもアイドルが決して私だけのものに感じられないのは、そこの距離に温度という要素が絡んでいない、ロボットのように無機質な存在でも置き換えられそうな存在だからではないか。

 だからこそ近い距離で温度を感じると、自分に対する心の距離がはじめて暴かれる気がする。温度というのは正の方向だけではなく負の方向だってあって、アルバイト先でお釣りを手渡すお客様の手はこころなしかどれも冷たい。接客という必然的に距離が近くなる場に立ってはじめて、自分のことを「店員」のワン オブ ゼムとしか見ていない事が伝わり、それこそ客の手が釣り銭受けのトレーのように見えたりする。

 温かくない、即ち冷たい存在に対して親しみを感じる事ができないのは、恒温動物であるヒトのイメージから外れる点で(少なくとも自分に対して)「人間味」を感じないからか。死んだ人間が棺の中で冷たくされている感覚、熱伝導率の高い金属でのアンドロイドも、人間の形をしているからこそ「温かくない」という事で余計に物悲しさを感じさせたりする。その反面、温かさが親しみなり、もっと言えば愛だの恋だのココロ的な部分にヒットするのは、自分を見ても社会を見ても分かりきっていることだろう。お布団が恋人な大学生が多いのも無理はない。

 遠くにいれば、その人が自分に近づいた時に温かいか冷たいかが分からずにすむ。物理的な距離は心の距離に影響しないはずだけど、心の距離の指標としての温もりを測る精度に大きく関わっている。だからこそ人は距離感というものを気にしながら暮らすのかもしれない。

 それを逆手にとったアイドルの握手会やチェキ会(ツーショットの写真撮影)というのは、流石あれだけファンの心をつかんで離さないわけだ。かつては遠い存在であった人の温かさが、本人の手を持ってダイレクトに伝わるのだから。アイドルのおててが、握手しているその瞬間の君だけに温かいわけなんてないのに。アイドルだけじゃなくても、妙にスキンシップが上手い女性っているらしいから、自身も純粋に温かさを受け入れづらくなりそうで怖い。

 電車で会ったあの少女は、いつもああして誰かにあの温度を振りまいているのだろうか。万が一、いやありえないけれど、もしもそれが私だけの為の温もりだったとしたら。その事が確かめられないままに、京浜急行は私と少女の距離を二駅以上離していった。

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。