つれづれ/身体/温帯魚

いやはや、書くことがない。
いやもちろん課題というものは書きたいものを書くということではないのだろう。自由度が高いためつい勘違いしてしまう。気を付けなくては。
さて、今回のテーマは「身体」である。しんたい。話題としてはなかなか広げられる。いくつか思いつくものを挙げるとするなら例えば昔の体育の思い出であったり。私はあまり得意ではなかった。体育という授業は身体能力もそうだがコミュニケーションも多く求められるものだ。そもそも私にとってそれらは授業時間内にどうにかできる問題でもなかった。大学での講義はとっていない。
例えば身体の持たないAIの話であったり。いやあるいはロボットにせよコンピュータにせよハードというものとソフトに本質的な違いはないのかもしれない。ハードがなければソフトは動かない。ソフトがなければハードは意味がない。あるいはそれは生命に似ているともいえるし、生命という偏見から見た見当違いなのかもしれない。少し話はそれるが、人間という種族がここまで発展した一因には身体機能の脆弱さがあるだろう。弱く不便だからこそ人間の使う記号や道具は発展した。ならばAIも脆弱な体を持たせたほうがより高度になるのだろうか。
例えばセックスの話だったり。とはいっても経験はないから適当である。個人的には恋愛というものが生活において割合を占めたことがないので、他人の話を聞くと面白い一方で窮屈そうだなとつい感じてしまう。人間そんな愛が一つに集中するものなのだろうか。あるいはそれこそが身体と精神の同一性というものなのかもしれない。とはいっても興味はある。そういえば高校のころに友達と軽く話をしていた時に、女子から君もそういうことに興味があるのかと驚かれたことがある。個人的にはあの一件から他人にどう思われているのか激しく気になるようになった。与太話である。
例えば禅というものについてだったり。中学三年の時に盲腸で二週間ほど入院したのだが、その時母が持って来た漫画が手塚治虫の「ブッダ」であった。今思うと母は何を思って病人に持ってきたのか激しく気になる。悟れと。あるいは高校三年生の時にもしの倫理の筆記で(今思うとこの科目を受ける必要はあったのだろうか?)「梵我一如を説明せよ」という問いが出た。悟れと。しかしまあ本来物と物との境などは適当である。虹は六色だったり七色だったり、川と海の明確な境は無かったり。ならば世界と私という身体を区別するものも本来はなく、精神においても同じことなのだろう。世界は一つの現象であり、そこに名前を付けて認識するのだとするならば「梵」である。そして「梵」以外のモノも梵である。などと考えてみる。という世間話。
例えば舞台だったり。五年ほど吹奏楽をやって、昨年は少しだけ演劇に縁を持った。とはいっても私は本質というよりエンターテイメントに興味が向いていたので、浅い話しかできない。でもまあ、飛んで跳ねては見ていて楽しい。やってても楽しい。体力はないのだが。
ふらふらと書いたが案外楽しいものである。こんなものだろうか。それでは。

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「つれづれ/身体/温帯魚」への3件のフィードバック

  1. 書くことがないと言いつつ、書くこと一杯あるじゃん!というか具体例の列挙で、筆者は「このくらい」と言っていますが、字数制限がなければ発想力次第でいくらでも書けそうですね。禅、セックス、AI、舞台の順で面白かったです。

  2. AIの話が伝わりきらなかった。たくさん話したいことがあって、フラフラと思考していく感じは面白かったが、短い分量で、自分の思考をしっかり投影しないと面白いものにはならない。その推敲がいまいち足りないと思った。もう少し、一つ一つを詰めて、バーっと書いた勢いは残しつつまとめて欲しかった。

  3. 身体に関わる複数のテーマを淡々と書いていたイメージを受けました。しかし書き方が上手いので面白く感じました。

    例えば「梵」という深いテーマを扱った後に自分の舞台経験であっさり休止符を打ったという書き方は、上手ければ映画クライマックス後の沈黙と同じような効果を持つが、下手な人なら文章のペースや配分などを指摘される。結局文章力が問われるものです。

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