臭いと寄り添う/身体/三水

 江ノ電由比ガ浜駅から海に背を向け山へ歩いた、そのほんの裾野に、小さな洋館がある。由来はよく知らないが、保養地として名高い鎌倉だからその辺りだろう。今は鎌倉ゆかりの詩歌人や小説家の資料を集めた文学館として機能している。敷地は広いが建物は小さく、館内には埃とカビと古い紙と、心なしかアンモニア臭が充満している。狭い展示室に並べられた作品群は、やはり数はさほどないが代わりに説明が丁寧で、それなりにじっくり、ゆっくり楽しめた。古都の中心から少し離れた割には人気があり、平日のまっ昼間にも関わらず幅広い年齢層の人々が来館している。ちょうど薔薇の季節だから、そのせいもあるかもしれない。ローズガーデンと緑と青空と洋館は被写体としても背景としても優秀で、日傘を差したおばさま方やカメラを構えたおじさま方が嬉々として撮ったり撮られたり撮らせたりしていた。庭師というより植木職人といった風情のおやじが新種のバラを高説している一方で、「どれも変わりゃしないんだから写真なんかいいのよどこだって」と甲高い声が聞こえる。なんとものどかな空間だった。
 さて、お目当ての作家の、ごく小さな展示に顔を寄せてみたとき、隣の見物人との距離が知らず知らずのうちに縮まっていた。何か一点に見入るときのそういう不注意さは、美術館や博物館でよく体験するだろうと思う。お互いに経験があるし目的がはっきりしているので、あからさまにぶつかったりしない限り看過されるあの無遠慮さだ。私も当初は気にもかけていなかったのだが、一呼吸のうちに考えを改めた。咄嗟に反復横飛びの動作で距離をとってしまったほどだ。もちろん、その際相手に不信を与えるようにはしていないが、軽くむせてしまう程度には不意をつかれた。 そう、ものすごく臭ったのだ。その人の呼気が。カビくさい(それでもソレに比べたら全くもって気にならない)空調の風に乗って鼻をくすぐる悪臭は、ちょっと説明できないほどに、あり得ないほどにひどかった。筆舌に尽くしがたい、という表現を今初めて使う。そのくらいには臭かった。人の肉体は歳を経れば当然徐々に衰え劣化し朽ちていく。それは誰にも逃れられず、また誰もが知っていることだ。だとしても許しがたい臭気であった。狭い室内をカニ歩きで逃げつつ、そこで咄嗟に思った。将来自分や、または自分の愛する人が、目の前の老婆のような臭気を醸し始めたら。ソレを前にして談笑したり、見つめ合ったり、あるいはキスをしたり世話をしたりする時が来たら(それこそ歯磨きや入れ歯の手入れまで)。私は彼または彼女を愛せるだろうか。口臭に限らない、肉体が発するありとあらゆる汚れに向き合い、きちんと目を見て、触れて、そして幸福を感じることができるだろうか、と。反対に、いや、ソレを乗り越え日常の一部にすることこそ、あるいは愛なのかもしれない、と。また、私自身のソレを含め、共に乗り越えてもらえるだろうか、ということも。
 思わぬところで将来の不安と愛の偉大さにおののいていると、その見物人の横にもう一人、連れらしき人物がやってきた。老婆よりは少し若いが、それでも友人同士の距離感で、自然に。そうして彼らは作品や邸の造りや次の予定を話し始める。顔と顔を見あわせて、随分と楽しそうだ。だがその瞬間も、当然ソレは周囲にまき散らされているというのに!……私が思うよりも、人は忍耐強い愛を持っているものなのかもしれない。とにかく歯を磨く。

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「臭いと寄り添う/身体/三水」への2件のフィードバック

  1. 身内から臭いと指摘されたことはある。周囲の人間からは気を使われているのかもしれないが、もしかして臭いと思うのは身内だけなのかなーという希望的観測。あるいは慣れかもしれない。自分の部屋は毎日寝起きするが、家人には臭いと指摘され、驚いたことがある。

  2. 人間って相性の段階で臭うか臭わないか決まるって話を思い出しました。鈍感である事がまた幸せなのかもしれませんね。

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