障害者羨望/身体/仄塵

小さい時になぜかよく「目が見えないのと耳が聞こえないのどっちがまし?」について考えていた。声が聞こえないということは好きな音楽も聴けない。それもそれで嫌だけど、視覚さえあれば手話とかも出来るし、この世界の大半はこの目で見て捉えられるから、断然聴覚障害者の方がましだとずっと思っていた、多分今も変わらない。

現在我々が置かれている電磁波まみれの環境の中、お子を授かり、尚且つ健康な赤ちゃんを産めることも当たり前ではなくなっている。我が家は幸運に恵まれ、「平凡なわたし」が生まれたわけだ。

健康的、通常的を「平凡」と言うのはキチガイ臭しかしないが、「異常」は時々魅力的でもある。「無音の世界はどんな感じだろう?」「色覚異常の人が見る世界は何色?」「腕を上げたいのにどうしても上がらない挫折感が想像つかない」などを思うのは、健全人だからこそ知りたい、味わいたいという側面は否めない。じきにバーチャルリアリティのような、より本格的に「身体不自由」に関わる体験ができる技術が発明されるだろう。その体験者の大半は障害者支援の試みなどまったくなく、ただ自分の過剰なる好奇心を実践したいだけだ。

もっと過激な例を挙げると、怖い小説や映画の中に、残酷な刑罰に眼球を取り出すとか、嘘をついた人には舌を切るような描写がある時に自分の体もゾクゾクして不気味な感じに襲われる人は少なくないだろう。その感覚を味わえたのは自分が勝手に想像しあの痛みを体験したいからと考えられる。

自分は極端に「非日常な場面」が好き。コンサートやイベントはもちろん、一部の人は不快に思うかも知れないが地震が来た時もやっている課題とか全部止めてエゴサしまくりツイッター上の人々の反応を見たりNHKのニュースを付けっぱなしにしたり心がワクワクする。この場合は日常のほうが明らかに暮らしやすいし非日常な状況も決して私に利益などをもたらすこともない。しかしワクワク、しかし知りたい。その悪趣味はめっちゃ頑張って考えても理由が見つからない。

話を戻すと、皆さんは難民、貧困者、障害者に嫉妬の感情を抱いたことがありますか。中国では「特別貧困村」という認定体制があるらしく、山奥の村落がその「特別貧困村」に認定されると、落ち込むどころか村民たちはまるで正月のようにそれを祝うらしい。なぜなら政府の財政援助が一気に手厚くなり、生活もぐっとよくなるみたいだ。それと同じように「特別な存在」になった途端、不幸でも悲惨でもいい響きに聞こえることがある。この世界で一番の「残念だね大賞」は、絶対的優勢なグループと絶対的劣勢なグループの間に挟まれている、一般通常人に決定だ。

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「障害者羨望/身体/仄塵」への3件のフィードバック

  1. タイトルも然り、内容に関してもかなりとんがった文章と思いました。途中に映画などのスプラッタな表現について言及するところがありましたが、私はそういう痛い映画が好きでよく見ます(SAWとか)。たしかに身体を傷付けられているシーンを見てゾクゾクするし、興奮するのですが、それといわゆる障害者や、社会的弱者に対する羨望意識とは繋がらないのではないかと思い、あそこで「過激な例」としてあげるのは自分としては繋がりがよくわからなかったです。

  2. 弱者への興味と残虐性への興味の種類が私には違って、話がすり替わっている印象を受けた。妊娠の痛さを男の人が体験するやつを思い出したが、それもなんだか、不自由を体験したいのであって、痛みつけようというものではない気がする。
    それでも、とっても勢いのあるこの口調の文章は虜になる。好きだなあと思う。

  3. もしミロのビーナスに腕があったなら、という話に近いものを感じます。憧れるのは不自由でなく欠落であり、本能ではなく美意識の問題なのかなと。あるいはそれでも生きていける現代の価値観なんでしょうか?
    書きづらい内容なだけに上手くまとめていて凄いなと思いました。

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