不器用なダブルクリック/身体/エーオー

 「思わず」という言葉がある。
 世界で一番信用できない。
 肩に衝撃が走る。サラリーマンは行ってしまった。こういう時すぐに「すみません」と言えればよかったと思う。だけど、なんていうか、エレベーターが死ぬほど遅い。声が喉元まで昇ってくる気もなくて、いつもそれで代わりになるかのように少し、立ち尽くす。
 横断歩道の前で止まった。途端に疲労がのしかかる。あくびをするにも、頬の皮膚までやめてくれと悲鳴を上げて引きつれた。息が白い。冬の朝は冷えるし、俺だってまだ寝ていたかった。でも。
 たとえば、好きな人を抱きしめる人。いじめられっ子の前に立ち、相手に言い返す人のシーン。どうして? と聞くと彼らは言う。「あのときは、思わず身体が勝手に」。そんなの、絶対に嘘だと思う。
 信号が青に変わった。自然に一歩踏み出す。
あ、これは「思わず」だと思った。

「おはよう」
 教室に入ると、暁がほっとしたように声をかけてきた。すこし可哀想になるくらいあからさまな、縋るようだった表情がすこしほどけた。
「よかった、これで男子が三人になった」
「ね。ありがと、遠野くん」
 女子との慣れないやり取りにごにょごにょして鞄を置く。暁ならまだ同じ部活だが、喋ったことなど皆無に等しい。教室には普段の三分の一弱の人しかいない。学校の合唱祭まではあと二週間だ。
「朝練、人増えないね」
 キーボードをいじりながら小間沢がため息をついた。
「琴美さあ、もっかいちゃんと来てほしいって言った方がいいよ。やばいよ」
「うん、がんばる。まあ今日はテスト前だししょうがないよ」
 合唱祭のクラス委員になってしまった暁は明るく言った。しばらくして、頼りなさげな声が寄り添うような歌が教室に広がった。

 毎年、この行事って何のためにあるんだろうと思う。
 テストが終わった開放感から、学校中が騒がしい。ロングホームルームは合唱祭の練習に当てられたが散々だった。テノールパートが練習しているはずの廊下からは、音楽が聴こえなくなって久しい。義務的にデッキの巻き戻しボタンを押した。
「あ、遠野くん。バスは全体合唱いけそう?」
 暁が廊下から入ってきた。
「たぶん、逆に俺たちだけだとやりにくい」
「そうだね。よかった、なんかテノールの男子がどっかいっちゃってさ」
 困ったように息をついた。その後ろから、派手目の女子が連れ立って出ていこうとする。暁が慌てて呼び止めた。
「えっと、ごめん、そろそろ全体で合わせたいんだけど」
「あれ、今テノールいないんじゃなかった?」
「そう、なんだけど」
「ふーん。自販機だけ行ってきてもいい? もしいたら呼んでくるからさ」
「あ、うん。ありがとう」
 もし、「思わず」があったとしたら。ちゃんと練習しろよとか言ったのだろうか。でも現実でそんなことはなくて、声のつるべは重く腹の底でぴくりともしない。俺のような地味なグループの人間が、上の方のやつに何か言ったって無駄で、っていうか言う前から無駄で、だからどうにもならない。
「琴美、どうする」
 伴奏の子がこちらを見た。
「うん、どうにか、する」
 暁は苦しそうに言った。

「おつかれ」
 教卓の横にデッキを置くと、暁に声をかけられた。
「おつかれ」
「うん。テノールが廊下にCD置きっぱなしでさ。よかった、見つかって」
 練習は終わり、すっかり誰もいなくなっていた。声をかけてきたくせに、こちらの顔をみないようにして暁はCDを教卓にしまった。
 なんとなく、予感のようなものがあった。
「なんかさ。私、だめだね」
 そう言った声が震えていた。聞いた瞬間にもうだめだった。
 顔を覆って暁はまるくしゃがんだ。がらんとしたクラスに水の音が響いて、よっぽどここから逃げ出したかった。やめてくれよと思うのに、身体じゅうにかなしみを浴びせられたまま俺は立ちすくむ。
 「思わず」なんてできない。慰めるような言葉もでてこない。身体は勝手に動いたりしない。風船みたいに無駄に漂うこころも、いつも鉛の重しに括りつけられている。
 でも、だから、「思って」足の裏を引きはがした。
 左足が動く。しゃがむ。馬鹿みたいに動作を意識している。平均台の上にいるみたいに、なにをしたって確かな気がしない。それでも。
 ぎこちなく手を伸ばした。関節が軋んだ気がする。どうすればいいか分からなくて、なんとか肩を叩いた。つたない不格好なダブルクリックのようなテンポになって、それでもかまわないと思った。
 びくびくと肩のふるえが伝わって、それにまた怖くなる。それでも離せなくなった手の行き場のことを、隣にしゃがんだまま、ずっとずっとずっと考えていた。

身体がしゃべる/身体/きりん

自分の身体は本当に脳につながっているのか、と疑いたくなるくらい言うことを聞かないことがある。あるいは、脳がもう職務放棄して身体それぞれに任せきっているようなときが。例えば身体それぞれの感覚が声に出ていたら、どんな感じかやってみようと思う。どの部位かはご想像にお任せしよう。

こんな感じだ。

 

現在。

「もう疲れたんだけど、寝ない?」

「ね、起きてる?さっきから無駄足多いんだけど」

「おしゃれしたいな~。ね、マニキュア塗らない?」

「暑い。蒸れる」

「はらへり~」

「やっぱパソコンのスピーカーだと音悪いな」もう少し我慢してください。

 

書店来店時。

「俺あの本みたいや。あの装丁はきっとざらっとしてぐっとくるジャストなサイズだぜ」

「いや、んな金もってないから。みるだけ無駄でしょ。買える範疇のところみましょうよ。私疲れるの」

「もう僕疲れたぁ」

「時間大丈夫?時間」

「お腹すいた」

「あの新刊ひょっとして出てたりしないかな。時々見落とすし」結果挙動不審。

 

講義中。

「うぜぇ。髪の毛まじうぜぇ」

「さらさらでごめんなさいねぇ。てかこれで荒れるほどあなた繊細なの?えっ、まさかの繊細?」

「おまえ昨日リンス使ったろ。うえ、だるい」

「あっ……意識が……」

「準備―。準備しろ―」

「えー、この姿勢だと私よじれるから辛いんだけど」

「今日マスカラついててさ。ごめんな、堪忍!」寝ます。

時はバイトおわり。

「今日もちゃんと働いたわよ!褒めて褒めて」

「はいはいようやりましたなぁ。おかげでわいぼろぼろやで。ただでさえこのくそ靴がじゃじゃ馬やねん。また変にあとつくやん。これでも変に硬いとことことかないの自信やったんに。あーもう、はよ代われし。て、また履くんかよ」

「腹減った……」

「もう休ませて~。これ背負いたくない~」

 

みっつの場面を描いていみたが、理性の発言の少ないことよ。かつて脳科学の実験で意識的決定より行動の始めのほうが早いという結果がでたそうだが、なんとなく信じられる気がしてくる。私はこれまで精神と脳をほぼ同一視していたが、脳は身体の感覚を処理するただの機構なのではないだろうか。そんなことを考えた。

つれづれ/身体/温帯魚

いやはや、書くことがない。
いやもちろん課題というものは書きたいものを書くということではないのだろう。自由度が高いためつい勘違いしてしまう。気を付けなくては。
さて、今回のテーマは「身体」である。しんたい。話題としてはなかなか広げられる。いくつか思いつくものを挙げるとするなら例えば昔の体育の思い出であったり。私はあまり得意ではなかった。体育という授業は身体能力もそうだがコミュニケーションも多く求められるものだ。そもそも私にとってそれらは授業時間内にどうにかできる問題でもなかった。大学での講義はとっていない。
例えば身体の持たないAIの話であったり。いやあるいはロボットにせよコンピュータにせよハードというものとソフトに本質的な違いはないのかもしれない。ハードがなければソフトは動かない。ソフトがなければハードは意味がない。あるいはそれは生命に似ているともいえるし、生命という偏見から見た見当違いなのかもしれない。少し話はそれるが、人間という種族がここまで発展した一因には身体機能の脆弱さがあるだろう。弱く不便だからこそ人間の使う記号や道具は発展した。ならばAIも脆弱な体を持たせたほうがより高度になるのだろうか。
例えばセックスの話だったり。とはいっても経験はないから適当である。個人的には恋愛というものが生活において割合を占めたことがないので、他人の話を聞くと面白い一方で窮屈そうだなとつい感じてしまう。人間そんな愛が一つに集中するものなのだろうか。あるいはそれこそが身体と精神の同一性というものなのかもしれない。とはいっても興味はある。そういえば高校のころに友達と軽く話をしていた時に、女子から君もそういうことに興味があるのかと驚かれたことがある。個人的にはあの一件から他人にどう思われているのか激しく気になるようになった。与太話である。
例えば禅というものについてだったり。中学三年の時に盲腸で二週間ほど入院したのだが、その時母が持って来た漫画が手塚治虫の「ブッダ」であった。今思うと母は何を思って病人に持ってきたのか激しく気になる。悟れと。あるいは高校三年生の時にもしの倫理の筆記で(今思うとこの科目を受ける必要はあったのだろうか?)「梵我一如を説明せよ」という問いが出た。悟れと。しかしまあ本来物と物との境などは適当である。虹は六色だったり七色だったり、川と海の明確な境は無かったり。ならば世界と私という身体を区別するものも本来はなく、精神においても同じことなのだろう。世界は一つの現象であり、そこに名前を付けて認識するのだとするならば「梵」である。そして「梵」以外のモノも梵である。などと考えてみる。という世間話。
例えば舞台だったり。五年ほど吹奏楽をやって、昨年は少しだけ演劇に縁を持った。とはいっても私は本質というよりエンターテイメントに興味が向いていたので、浅い話しかできない。でもまあ、飛んで跳ねては見ていて楽しい。やってても楽しい。体力はないのだが。
ふらふらと書いたが案外楽しいものである。こんなものだろうか。それでは。

はは/身体/やきさば

母とは最近会っていない。

去年の4月に大学に入学して、一人暮らしを始めて、ゴールデンウィーク、お盆、年末、春休みと、長期休みがあると当たり前のように帰省していたのだが、2年になってからここ最近全く会っていない。

こないだのゴールデンウィークは別に帰省しなかった。なんだか忙しかったから。別に少し遅めの反抗期が来たとかではない。
わたしは4姉妹の2番目で、姉とわたしは親と離れて暮らしているが、下の2人はまだ歳も歳なので親とともに暮らしている。
その姉もゴールデンウィークには帰ってきて、わたし以外の家族みんなで宮古島に行っていたらしい。羨ましい。わたしだけが家族に会っていない。

夜、帰りが遅くなると電話する。
夜道は危ないからと、一人暮らしを始めてからずっと続けていた習慣だ。
でもそれもなくなってきた。1人で夜道を歩くことにも慣れてきたし、友達と帰ることも多くなってきて自然となくなってきた。
家に着いたらとりあえず母親に「きたくしました」とラインしてそれで終わり。そのあとちょっと雑談するとかも全くない。一緒に暮らしていた当時は、女友達のように仲がよかったのに。
もはや母親と会っていないというより、声すらきいていない。

けど、問題なのはその先だ。
だからといって、全く寂しさを感じないのだ。家族と疎遠になってしまうとかそういう感覚も全くない。
夏休みには帰らなきゃなあとか、そういう気持ちもない。むしろ今年は帰省できなそうだと考えているほどだ。

不思議だ。
どうして寂しさを感じないんだろう。
どうして焦りを感じないんだろう。
連絡してもしなくても、母親とはいつもどこかで繋がってられると安心している。
身体を触れ合わせなくても、心は繋がってられると安心している。

家族だからだろう?と誰もがいうだろう。
家族だから、いつでも安心していられる。
身体と身体で対面しなくたって心は繋がっていられる。
突然電話しても、わたしの味方だよと言ってくれる自信がある。

でもそれにかまけて、会いに行かなくなるのはよくないよね。夏休みには帰省しよう。わたしの元気な体を見せて親孝行しよう。

もう一つの身体で/身体/ヒロ

 ビィーー、ビィーーと機能停止の音が狭い部屋の中で響いた。
 僕は目を開けて起き上がり、頭にはめていたトランスシミュレーターを外す。
「今日も楽しかったなー。やっぱり全く違う人間になりきるのも楽しいよ」
 そして僕は今の自分の姿とはとても似つかわしくないもう一つの僕の身体を見つめた。

 十数年前に世界に新たな技術が開発された。それは自分の精神を他のものに移すものだ。
 もともとはVR技術の応用らしい。そのゲーム世界に入ることができる技術が開発されたのはもう三十年ほど前の話だ。だけどゲーム世界でも体を動かすことに違和感が生まれたりすることから髪や目の色を変えるなどの些細な変化しか許可されてはいなかった。実際に違法に元の身体と違うデータで遊び続けて脳に異常が出て、自分の身体を満足に動かせなくなってしまった例もある。
だけどこの精神転移技術は今までの身体と全く違う身体も操ることができるのだ。精神転移で人間そっくりに作られた生体義体に精神を移すことができるのがこの技術のすごいところである。その生体義体にはその人用に調整がされていて、その人に何の異常も与えないようになっているらしい。

僕は今日もトランスシミュレーター、僕の精神を義体に移すための装置を使って町に出かけていた。最近仲が良くなった女の子とデートの約束をしていたのだ。もちろん相手も義体である。義体でも人間の生理反応は再現しているのでもちろんあんなことやこんなこともできるのだ。何でも最近は義体で卒業する人も多いらしい。
待ち合わせの場所に来てみたらもう相手の子は来ていた。「すいません。待たせましたか?」と声をかけながら駆け寄る。
幸いにも気分は悪くしなかったのか笑顔で大丈夫ですよ、と答えてくれた。

その後は普通のデートをした。義体を使っているからといって変わったことはない。自分の妹などの家族の話や最近あったことなどの世間話をしたりしながら色々なところを回っただけだ。
義体の外見は自由に変えることができるので今ではそれよりも性格などの内面が重視されるようになっている。僕も楽しいデートをすることができてなかなか彼女との相性は良さそうだった。

デートも終えて僕はまた自分の本当の身体に戻った。鏡で自分の顔を見るが、義体と比べて不細工でどうしても違和感がある。このままこの姿でいてくだらない人生を過ごすよりも義体の中に入って楽しく過ごすほうがいいんじゃないかという思いが浮かんでくる。
そう思うと止められなかった。もう一度義体に、いや僕の本当の身体に戻って今までの偽物の必要のなくなった身体の首を絞める。
抵抗もなく、それの死はあっという間のことだった。
それでも僕の心は希望で満ち溢れていた。
そう、これから僕の新しい幸せな人生が始まるんだ!

障害者羨望/身体/仄塵

小さい時になぜかよく「目が見えないのと耳が聞こえないのどっちがまし?」について考えていた。声が聞こえないということは好きな音楽も聴けない。それもそれで嫌だけど、視覚さえあれば手話とかも出来るし、この世界の大半はこの目で見て捉えられるから、断然聴覚障害者の方がましだとずっと思っていた、多分今も変わらない。

現在我々が置かれている電磁波まみれの環境の中、お子を授かり、尚且つ健康な赤ちゃんを産めることも当たり前ではなくなっている。我が家は幸運に恵まれ、「平凡なわたし」が生まれたわけだ。

健康的、通常的を「平凡」と言うのはキチガイ臭しかしないが、「異常」は時々魅力的でもある。「無音の世界はどんな感じだろう?」「色覚異常の人が見る世界は何色?」「腕を上げたいのにどうしても上がらない挫折感が想像つかない」などを思うのは、健全人だからこそ知りたい、味わいたいという側面は否めない。じきにバーチャルリアリティのような、より本格的に「身体不自由」に関わる体験ができる技術が発明されるだろう。その体験者の大半は障害者支援の試みなどまったくなく、ただ自分の過剰なる好奇心を実践したいだけだ。

もっと過激な例を挙げると、怖い小説や映画の中に、残酷な刑罰に眼球を取り出すとか、嘘をついた人には舌を切るような描写がある時に自分の体もゾクゾクして不気味な感じに襲われる人は少なくないだろう。その感覚を味わえたのは自分が勝手に想像しあの痛みを体験したいからと考えられる。

自分は極端に「非日常な場面」が好き。コンサートやイベントはもちろん、一部の人は不快に思うかも知れないが地震が来た時もやっている課題とか全部止めてエゴサしまくりツイッター上の人々の反応を見たりNHKのニュースを付けっぱなしにしたり心がワクワクする。この場合は日常のほうが明らかに暮らしやすいし非日常な状況も決して私に利益などをもたらすこともない。しかしワクワク、しかし知りたい。その悪趣味はめっちゃ頑張って考えても理由が見つからない。

話を戻すと、皆さんは難民、貧困者、障害者に嫉妬の感情を抱いたことがありますか。中国では「特別貧困村」という認定体制があるらしく、山奥の村落がその「特別貧困村」に認定されると、落ち込むどころか村民たちはまるで正月のようにそれを祝うらしい。なぜなら政府の財政援助が一気に手厚くなり、生活もぐっとよくなるみたいだ。それと同じように「特別な存在」になった途端、不幸でも悲惨でもいい響きに聞こえることがある。この世界で一番の「残念だね大賞」は、絶対的優勢なグループと絶対的劣勢なグループの間に挟まれている、一般通常人に決定だ。

身体と心/身体/YDK

 

<浮気はどこからか>

 

わたしのTLがよくそんな感じのネタで埋まることがある。ここで出てくるのが、手をつなぐとかキスするとかセックスする、なんていう身体接触が基準で浮気と判断する人と、なにをしようとなにをしなかろうと、心がほかの人に向けば、文字どおり気持ちが浮ついてるから浮気だ、という人だ。どちらも一理あるが、みなさんはどうだろうか。

 

ここでいくつか問題になってくるのだがそのひとつは、心のない身体接触などあり得るのかどうか、ということ。まぁキスとか手つなぎまでなら、相手のこと好きじゃなくてもできるのかもしれないけど、セックスに関しては本当に心がないのにできるものなのだろうか。(処女非処女でもその感覚は変わってくる気がする)という意味では、セックスしたらさすがに浮気かなぁなんていうのは少し思う。でも皮膚の接触という意味では同じか。

あとよく言われるのが、「隠し事をしたら浮気」というやつ。要は彼氏彼女以外と秘密を持つということだねこれは。上の主張をした人が言うには、好きなら、「ちゃんと相手に確認を取ることで、相手を許可を出す側にさせるという意味で優位に立たせている」とか何とか。ふむう…。

しかし!

これ実際許可出されなかったら怒るよね……喧嘩になるよね……それで結局遊びにいくよね……(小声)世の中の可愛い彼女ちゃん達は言うこと聞くのかな……。好きの度合いの問題なのかな……。

そしてこれまたよく言われるのが、異性(同性)とサシで遊びにいくのはどうか。そこで身体を許す許さないに関わらず。複数人だと割とオーケーな人が多いのに、サシってなると話が変わるのは何故なのだろう。当たり前な気がするけどいざ言葉で説明しようとすると無理でした。誰かいい説明ください。
とまぁつらつらと書いてきたわけですが、身体と心がバラバラなことなんてあるんですかね。身体は無意識の心と繋がっているんでしょうか。無意識の心は心なんでしょうか。心は満たされてるけど身体は寂しい時もあるし、その逆もまた然り……難しいなぁ。

成人病/身体/なご

快楽というものはたいていの場合からだに悪い。というのは皆さん経験上わかっているのではないだろうか?代表例としてあげられるのが、お酒を飲んだ後のシメのラーメンである。ハイパーおいしいのは間違いないのだが、同時にハイパーからだに悪いのも事実である。神様は人間の寿命を短くしようと仕向けているとしか考えられない。

私は大学に入ってから体重が増えた。8~10kgぐらい。いくつか原因が考えられるだろうがおそらくはろくに動かずに飲み食いしすぎているだろう。高校まではある程度の運動ときちんとした食生活を送っていたからか、いくらかの量を食べても全く太らず体重をキープし続けていて、漫画のキャラクターがよく発する「私食べても太らないタイプなんだよねー」を多用していた(誰からも「じゃあカツ丼100杯食べてもらおうか!」というツッコミは飛んでこなかったが……)。それがこのざまで、またしても高校の同窓会では「太った?」とか「顔丸くなったねー」とか言われ放題で返す言葉もなかった。

こないだ別件で何年振りかに大きな病院へ行くことになり、太ったことを伝えると、お医者様から「とりあえず2ヶ月で3kgやせてください」と言われた。2ヶ月もあれば3kgやせるなんてどうってことないと思っていたが、結果から言うと全くもって体重が減ることはなかった。この時に感じたのはレポート提出の時と同じ感覚である。2ヶ月という期限を設けられ、3kgという分量を提示されると、まず最初の1か月は何もしない。そして「残りの1か月で10日で1kg痩せれば大丈夫」とかいう計算をしだす。こうなってしまってはおしまいだということをなんとなく理解しているものの無視する。そして何も変わらないまま1週間前になり、「この1週間断食すれば」とかいう無理な発想がうまれるものの断食などするはずもなく、最終的には「この2ヶ月では無理だったけどまた次の2ヶ月で頑張れば長い目で見たときに変わらないだろう」という諦めの境地に至る。ダイエットの再履である。

一体何回目の再履なのかわかったもんじゃないし3日で履キャンもざらである。きちんと単位を取らなければ、このまま成人病まっしぐらでドロップアウトも見えつつある。

 

こんな文章を書きながら「今日から野菜ジュースダイエットでもしようかな」と考える。はたしていつまで続くことやら……

 

満月の狂人/身体/JBoy

彼はワシントンÐ.C.で生まれた。

5歳の時に、父親が亡くなり孤児院に預けられ、そこで幼少期を過ごすことになった。この孤児院では、文字通りの教鞭による指導が行われており、お仕置きとしてきつい鞭打ちが行われていた。彼はこの幼少期に目覚めてしまったのである。尻を鞭でたたかれるたびに、えもいわれぬ興奮を覚えるのだった。彼は唯一鞭打ちを楽しみにする子供であった。

彼の名は、アルバート・ハミルトン・フィッシュ。アメリカ犯罪史上最悪のシリアルキラーである。自供するところでは、実に400以上もの人々を殺害したという。異常な性的倒錯と凄惨な犯行で、1936年に死刑が執行された。

後に著名な精神科医のフレデリック・ワーサム氏は、彼の中にはサディズムとマゾヒズムが極端に同居している、と評している。彼は痛みを快楽に変えることができる能力を身に着けていたのだった。

 

彼の性的倒錯の極めつけは「カニバリズム」、即ち食人である。彼は後に被害者家族に送った手紙には、食人を中国で目の当たりにし、自らも試してみたくなり犯行に及んだのだと語っている。当時は1894年、ちょうど中国では日清戦争の時代で深刻な飢餓に悩まされ、子供が食用として売られていたのだとか。

カニバリズムについては、文化人類学においては、社会的制度的に認められた慣習や風習であり、一般的に飢餓状態や精神異常による食人を含まないとする。これを考えると、中国の例はもちろん飢餓という状況であったのでカニバリズムとは言えず、本題のフィッシュの場合はどうだろうか。1935年に行われた裁判では、弁護に立ったワーサム氏はフィッシュを明らかな精神異常であると断定した。しかし世論の多くは彼の死刑を望み、陪審員も彼を正気であるとして有罪の評決を下した。精神異常ではないという裁判の判決に則るならば、フィッシュの犯行はカニバリズムであったといえる。一方でワーサム氏の評価に則るならば、このフィッシュの行動は一体何なのか。

カニバリズムに限って言うならば、ウィキペディアのカニバリズムのページには、カニバリズムの一分類として「人肉嗜食」という新たな項目を設けて、この事件を取り扱っている。またこれに類する同様の事件をあげる中で、特に性的なフェティシズムに動機づけられたものであると述べている。

動物界ではこの行動は珍しいことではない。有名なところでは、カマキリの雌は交尾した直後に雄を食ってしまうのだという。自然界における共食いは餌の不足や、同種個体を殺すことによる自然淘汰の考え方に大別されるが、人間に近しい例として野生のチンパンジーも共食いをする霊長類であり、なぜ共食いをするのかについてはいまだによく解明されていない。

様々な視点でカニバリズム、食人を見てきたが、おそらく大半の人が気持ち悪いという感想を抱くと思う。しかしこのテーマについて考えるとき、なぜ気持ち悪いという感情が先行してしまうのだろうか。