破れた輪っかの/棘/ノルニル

     行くあてもなくバスを降りて、知らない街をひとり歩く。坂を登りながら上を見上げて、日が傾くと空の青がだんだん白んで死んでいくのだなと、そんなことをぼんやりと思う。
     遠くの家の窓ガラスに、だいだい色の光がうつってまぶしい。商店街の畳屋からい草の懐かしい香りが漂ったかと思えば、すれ違ったホームレスの通ったあとに饐えた臭いが立ち込める。やがてはそれも風に吹かれてすぐに消えた。

 

     きんいろをした月の思い出は遠く色褪せて、雑然としていたものが澄んだ単色に染まる。はじめは純粋だったはずの気持ちに、いつの間にか歪みが溜まっていた。
     目まいに地面がぐにゃぐにゃする感覚。半分はんぶんの気持ちはぎざぎざに割れて、その切っ先が胸に深々と突き刺さる。じくじくとした痛みはからだじゅうを苛み、傷口から流れ落ちた感情が血だまりを形作る。
     頭の中をおおうこの感覚はいったい何?四六時中、水の中にいるみたいに思考がはっきりしない。必死に堪えた息が時おり漏れ出て、身体が静かに震える。

     目を開いて、でも何も見ないようにしながら、息の続く限り自分を呪う言葉をひたすらつぶやき続けた。
     喉に言葉が引っかかるような感覚がずっと残る。いつしか声は出なくなり、代わりに喘ぐように酸素を求めた。胃を吐き出すような不快感がこみ上げて、激しく咳き込む。積み重ねた言葉と裏腹に、身体は生きていたいと主張する。どろりとした粘度の高い唾液を飲み込み、生理的な苦しさに潤んだ瞳に口元を歪ませて、狂ったように笑い声をあげてみる。

 

     人が傷つくのを見るのはいちばんつらい。そこには傷つける自分がいるからだ。あるいは、自分の思いを当てはめてしまうから。
     エッジの立った思いの棘はひとに突き刺さるのではなく、引っかかるのだと思う。まるで釣り針の返しのように、ささくれ立った感情はこの身に食い込んで外れない。
     でも、年を重ねるごとにわたしの表面はすり減って、次第に引っかからなくなっていた。これが大人になるということなのなら、と滑らかな皮膚を引っ掻くような心地よい痛みに酔いしれていたはずだった。

     壊れた歯車が噛み合わないまま、思いのフィードバックがループする。それはいつだって空回り。
     この世が舞台ならそれはきっと、わたしのための物語じゃない。わたしが主役としてスポットライトを浴びることはけっして許されないということに、いまようやく気がつく。行き場のない感情が溢れて、思いの雫が零れるのはいつ頃振りだろうか。
     しかし、それでもわたしは語り手たり得るのだ。古い詩にあるように、わたしの魂の指揮官はわたし。だからこそ、わたしは語ることそれのみを許されている。わたしは主役じゃないけれど、これはわたしが紡ぎ、わたしが望んだ物語だ。

 

     霧雨が降り始め、夜の闇を厚い雲が覆う。雲の切れ間から覗く地球の衛星の輪郭は、まるで破れた輪っかのよう。
     月も見えないこんな夜には、星を降らせて、わたしを殺して。
     誰にも聞こえないようにそっと囁くと、なんか素敵、鏡の中の君がふふと笑った。

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「破れた輪っかの/棘/ノルニル」への3件のフィードバック

  1. 平仮名多めの文章で、童話とか詩のような印象を受けました。時々混ざる片仮名とのバランスが少し気になったところです。
    年を重ねるごとに表面がすり減るという発想に目がいきました。

  2. ひらがなの多い文章の中で恐ろしいことを書くってやっぱり怖いですね。自分もこういうところはあるのでわかると言えばわかるのですが、なんかきれいごとみたいで共感には欠けるかもしれません。そもそも共感のために文章を書くべきなのかはわかりませんが。

  3. 人が傷つくのを見るのはいちばんつらい。そこには傷つける自分がいるからだ。あるいは、自分の思いを当てはめてしまうから。

    これに尽きるなあとか勝手に思ってた。傷さえも自分本位でしか、考えられないのに、でも実際には本当にその人のことを考えてたりもする、だから完全偽善でもないよなあとか、いろいろ考えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。