好きな曲を延々と聞き続ける、みたいな地獄があるかもしれない。
感性の一番柔いとこを嬲り殺すみたいな地獄があるかもしれない。
「俺今彼女つくる気ないんだよね」
真尋くんからこの言葉を聞いたのは何回目だろうか。
駅前に響く下手くそなギター。前を通り過ぎる人々は、立ち止まるどころか眉間に皺を寄せて歩調を早めた。安っぽいメロディーラインはここ最近流行っているバンドの曲にそっくりだ。私みたいな素人でもわかる。
真尋くんの夢は二年前から、いや、もっとずっと前から変わっていない。
「将来ふつうに就職するとか、逃げだと思うんだよね」
音楽で天下をとる、だなんて本気で考えている人いるんだなという印象だった。
大学のサークルでも真尋くんは異例で。みんなは授業に適度に出席して、遊びに行って、そんな中で片手間に音楽をしていたのに真尋くんは違った。
「俺は自分の可能性を信じてるんだ。」
私の他に誰もいない部室で、真尋くんは静かにそう言った。
俺はあいつらとは違う。俺には信念があるんだ。
「なんでそんな自信があるの?」
「自信じゃない。当然のことなんだよ。」
真尋くんは私が聞いてもわかるぐらいには上手くなかった。それでも彼の目は自分を信じて疑っていないのだ。
それまでずっとくだらないと思っていたのに、その無知と無謀と、無垢さに私はいつの間にかやられていたのだ。大学一年生の夏のことだった。
「理子ちゃん、真尋と付き合ってるってホント?」
真尋くんと中高一緒だったらしい美国くん。付き合っているわけじゃないよと答えれば、ならいいけどと笑われた。本気で心配してる顔だったもんだからどうして?と聞き返すと
「あいつ人間のクズだからさ、絶対に心許しちゃダメだよ」
だって。あまりにもあまりにもな回答だ。真尋くんが人間のクズ。
そんなことわかってるんだよなぁ。
真尋くんは私と頑なに付きあおうとしなかった。
「俺今彼女つくる気ないんだよね」
彼には音楽しかないから。それ以外のことに時間を割いている暇はないから。
「マジで、世の中みんな腐ってんだよな。俺の才能に気づけない愚かな奴が多すぎる」
「……そうね」
真尋くんが路上で歌う曲は、随分昔に彼が気まぐれで私に贈った曲だった。
そこに特別な理由はない。彼への感情はいつの間にこんな醜い形になったんだろう。
もうやめようよ真尋くん、もうやめて普通に大学で勉強して就活して、幸せになろうよ。普通を見下した真尋くんにそんなこと言えないのは、それこそ私の逃げなんだろうか。
はじめから、彼の夢なんて信じちゃいない。
彼に吹く自由の風に一緒に当たりたかっただけ。
本当はこっちを向いてほしいなんて、もう口が裂けても言えないね。
緩やかな地獄の中で感性を静かに殺されて、それでも諦めきれずに彼の脆弱な夢の終わりを願ってる。
その言葉が、「お前には欲情しないよ」って意味だってこと。大丈夫、気づいてるから。
好きだなんて言わないよ。だからもう少しだけ、惰性で愛することを許して。
バンドマンはみんなクズ、しかし我々はそういうクズが好きになってしまう。真尋の場合は人がクズな上に音楽の才能もないみたいですね。欲望の原因が良く分からないものです。
惰性で愛する、というフレーズがとても良いなぁと思いました。主人公は真尋くんが普通に大学通って就活して、無垢でなくなっても彼を愛するのでしょうか。