The point of laughing/模倣文/シベリア少女鉄道

世界から争いは消えない。綺麗事で片付かないその事実は、休日だろうと御構い無しである。

ここにもまた争いがあった。人々は争い、奪い合い、周りより秀でようとする。同じ人間であるのに。同じ職業で、互いのことはよく分かっているはずなのに。中には出自が同じもの同士でさえ、敵となる。奴らの違いといえば、自身の「色」ただそれだけなのである。

誰かが周囲に差をつけようと果敢に攻めれば、やられる前に、と、他も負けじと攻める。永遠のいたちごっこだ。何を以って争っているのかさえ、その時々で違いさえする。理由なんて関係ない。そう、みんな、争えさえすればよいのだ。その中で自分だけが高みに到達すること、それだけを思い描き争いに参加する。手を結ぶ事はあっても、最後に笑うのは自らだけだという思いは変わらない。それぞれの「色」は、交わる事なく、個としてあり続ける。

気づけば、観衆もまたこの争いに夢中になっている。観衆はそれを楽しみ、手を叩いて笑っている。争いの最中に見える赤いものさえ、見慣れてきてしまう。一つ争いに区切りがつくと、また次の争いが生まれる事を心待ちにするのだ。

争いを楽しむ人々。狂ってしまったわけではない。観衆が争いを楽しめるのは、他でもない「神」の存在があるからだ。

神は全てを見通している。そして、争いの中でしかるべき裁きを与えていく。人々が争いの中で求めるものは、全て神の手によって分配されるのだ。神の施しは時に誰かだけに与えられ、神の一撃は時に皆の全てを失わせる。そこには事情も序列も何も関係ない、神が全てなのだ。神の機嫌が良きところに恵みがあり、悪きところでは奪われる。神はすべてを見据えられる位置に鎮座し、人々を操る。

争いあるところ、必ず神が存在する。だからこそ観衆は、安心してよいのだ。「これはやりすぎだ、神から罰がくだるに違いない」「これはいいぞ、神だって喜んでいる」と、争いの結果を司る神の存在を担保に、それを楽しむことができるのだから。

争っているやつらだって、神の存在を無視できない。冒涜するものもいれば、崇め奉り、赦しを得ようとするものもいる。だが中には神の存在なんてお構いなしで、やりたいように行動するものもいる。「色」で腑分けされた奴らには、文字通り自分なりの「色」がある。

神の存在も、絶え間ない争いも普遍である。ほら、今日もまた、こんな日曜日に、「色」を持つ奴らの争いは始まる。最近あらわれた、新たな白き神のことばを皮切りに。

 

 

 

 

 

「皆さんこんにちは、笑点の時間がやってまいりました、司会の春風亭昇太です…」

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「The point of laughing/模倣文/シベリア少女鉄道」への3件のフィードバック

  1. タイトルに答えが書いてあるのに騙されてしまった感が半端ないです。楽しい場所であるあそこを、悟られないように殺伐とした雰囲気で錯覚させていくのは上手くできていたと思います。

  2. 途中まで人種間の争いについて書いている文章かと思いました。わざと重い文体を用いているのが戦争をイメージさせますね。また「色」と表現が汎用性が高いのでおそらく肌の色を連想させるよう誘導するのに成功していると思います。見事に裏切られました。

  3. 単純にすごいの一言ですね。
    司会者を神に例える発想には驚くと共に感服しました。

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