匣の中のあなた/模倣文/なべしま

彼の人が夏を連れてくるのでしょうか、夏が彼の人を連れてくるのでしょうか。年のかさは五十程、小此木さんは今年もやってきました。
「暑い中ご苦労様です」
「いえいえ、仕事ですから」
「いえいえ、こう暑いと何するにも疲れるのに、ましてや」
「分かります。この前墓参りに行きましたがね、老体にはこたえます」
汗を拭く彼に麦茶を手渡せば、ぱきりぱきり音。割れる。焦がした琥珀の液体は氷をひととおり舐め、彼の喉仏の向こうをすっかり伝い落ちてゆきました。
手袋をはめ、彼ははやアップラヰト・ピアノの解体に着手します。黒光りする板を外せば、まるで鮫の歯の如く鍵盤裏にお行儀良く木製ハンマーが連なっておりました。
ああ、そして。彼の姿をひとたび見ますと、耳の奥であの曲が蘇るのです。

小此木さんには年一回、ピアノの調律でお世話になります。もう結構な付き合いです。
「弾いてあげてますか?」
返答が遅れました。ちょうど、皺の濃い木の根の様な指が鍵盤を叩くのを見ていたので。
「ええ、ぼちぼちと」
「それはよかった」
それっきり。彼はホの音を調節すべく螺子を閉めています。どうも弦を張るようです。鍵盤の数だけ弦は張り巡らされ、ハンマーも楽しげにポクポクと上下します。
「なんだか、人間の様ですね」
「はあ」
口に出した瞬間後悔しましたが、詮無いこと。彼はしっかり私の言葉を拾い上げてしまいました。
「あ、ええ、つまりピアノの脚は脚ですが、ここに張られた弦はまるで神経みたいで、ええ、つまり鍵盤を押したらその刺激は弦を通って脳に伝わると言いましょうか…」
「ピアノに脳味噌があるとゆうこと?」
「はい、そうですね。むしろピアノ自体が大きな脳というか…」
ああ、南無三。どうも私は相手を困らせている。しかし所詮は、相槌の優しさに殺されながら、面目だけ取り繕おうと議論を結論づける私です。なんたる卑しさ。なんたる業。
「なるほど。それは考えたことがなかったなあ」
ところが流石は年の功。
小此木さんは小粋な返答で、私の燻った自意識ごと洗い流してしまうのでした。

全てが終わり、大きな鞄に道具を詰めきります。ちょつといいですか、どうぞどうぞ。小此木さんは最後ピアノに腰掛け、そうして何時もの曲を弾き始めます。
しゃぼんだま とんだ
やねまで とんだ ーー
「はい、これで音の方は大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
そして私も何時ものように小此木さんにお茶を勧めました。

ところで、この世から失われたものを繋ぎ止めるには、如何なる方法が可能かという話です。
なぜ、いつもしゃぼん玉を弾くのかと。
聞いたことは御座いません。しかし時にそれは鞄にくくりつけられた子ども用のマスコットで。時にそれはパスケースの古びた写真で。墓参りの話で。雄弁に語られていると思うのです。
ぱきりぱきり音。麦茶の氷が溶ける。
思い切って、いっそ尋ねたほうが、彼を過去から連れ出せるのかしらん。
ピアノは脳味噌。鍵盤を弾けば刺激の集積は蓄えられます。しゃぽん玉の曲、それはこわれてきえた彼の息子さんそのものでしょうか。ドファファソラドドと弾くたびに、このピアノの中に、息子さんが出来上がってく。不在をどうにか存在させる為に、いたはずの誰かを忘れぬように、彼は毎年しゃぼん玉を弾くのです。

小此木さんが帰ったあと、私もまたこっそりしゃぼん玉を弾きます。こんにちわ、ピアノの中で生きるあなた。そうして綺麗に音が出たときは、正しく彼からの返答だと思うのです。

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「匣の中のあなた/模倣文/なべしま」への2件のフィードバック

  1. なべしまさんの雰囲気はある。言葉選びや文の作りはとてもそれっぽくて、文体の模倣としてはだいぶ読み込まれているなあと思った。それっぽい。
    ただこの文体は雰囲気を楽しむところに重きを置きたいので、文と文の空気感を柔らかくしっとりと、そして全体の量をもう少し減らしてみたりするといいのではという感じ。話の内容がどっしりとあるところだと重農で美しい文章と中身が重くなりすぎて、ちょっと大変だ。察せさせる文章をこの手法で書くとよいかも。

  2. 文字の使い方、用いる単語、リズム感などすごく似ていました。少しレトロに傾きすぎな感じもありますが、雰囲気はあります。
    内容はきっちりと意味のあるもので、少し寂しくて良かったです。ただなべしま文は意味の取れないもの、意味のないものなので、模倣という意味では、そこまで気合を入れて物語として完成させなくてもよかったのではないかとおもいます。

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