蛍慕情(抄)/曲/なべしま

宵待ち草 高峰三枝子

『徒然なる、そんなことを申しますがむらっけのあるのは重々承知、私の悪い癖でございます。しかしこの日記をもらったからには捨て置くのは忍びなく、ゆえにこうしてわが身に鞭をと筆をとった次第。とはいえ何を書きましょうか、積もり行く日々を残せどつまらぬ話、面白しと言われるには百年、千年。まず紙が持ちますまい。私は書きたいことを連ねることにいたしましょう。このまま朽ちゆく日記ならば、恥、澱でありましょうが、共々心中するように消えるのみです。』

『どの時代にも錯誤はつきもので、あの川にも仰々しく弧を描いた石橋が架かっていました。煉瓦のように削られた石はアーチに組まれており、五つある弧の二つ目、川岸に近いところには女が一人立っております。花のかんばせ、瑞々しい十六の未熟さ、しかし目には暗い水面を映している、何やら訳ありげな様子。お嬢さん如何しましたと声をかけるのはそう難しいことではありませんが、それもなんだか風情に欠ける。沈んだ顔でため息を吐く少女、それは一つの美しさであり、きっと気付いていませんでしょうが、彼女の、少女としての刹那的な美を一層際立たせるのです。そう思う私はきっと善い人間ではありません。その橋の名を見てみれば、大正五年、鳥居橋とありました。』

『少女、名を名乗りはしませんでしたが、この晩も彼女は欄干にもたれかかり、物憂げな様子。季節は蛍、川には幾千の光が飛び交っております。河原にも数匹迷い込んできたようで、浴衣の袂に一匹引っ付いて、こんなところで命を燃やしても何にもなるまいとは思うけれど、鼓動のように瞬く光には見とれてしまうものがありました。鳥の子は人の臭いのつくと仲間から迫害を受けるそうであります。それを思うと、こうして私についてきたばっかりに蛍としての宿命を果たせないのは酷な気がして、団扇で川の方へ扇ぎ寄せてやりました。それはあの少女に対する贖罪だったのかもしれませんが、蛍と戯れる様子、日頃の憂鬱を忘れているようでした。』

『新月でした。そんな日に外に出ていくこともなかろうと、それも尤もで、明かりを持って行けばいいのかもしれませんが、たまには家にいることも悪くはありますまい。すると思い出されるのはかの乙女のこと、この暗い晩も橋の上に佇むのでしょうか。』

『きっとそうなるだろうと、予感していましたし、期待もしていました。彼女の不幸を美しいと思って、それでも私は彼女の幸せを望んでいたのだと、せめて善い人間で居たかった。だから橋の上、その姿が無くなったのも、必ず幸福の道を歩んだのだろうと信じております。欄干に蛍がもぞもぞと動いており、これは光を放っているのでしょうか。寝ぼけたようにふらふらと飛んで行きました。何一つできることはありませんが、もし、もし万一彼女の待ち人が探してやってきましたら、あの綺麗な人はずっとあの橋に居りましたと、私が証明しましょう。これは遺書ではありませんが、私が死んだらその人に届けてくださいませ。』

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「蛍慕情(抄)/曲/なべしま」への4件のフィードバック

  1. やっぱり素敵な世界観で、こういう時代、世の中のss集みたいなのが読みたいなぁと思いました。
    少女も語り手も幸せになれればいいのですが。

  2. 美しい。けれど気味のわるい。
    なべしま節をありがとうございます。
    この日記の主は、当人のいう通り決して善人ではない。けれど、身勝手に同情したり夢想したり人の役にたとうとする、どこまでも当たり前の人なんじゃないかと。勝手にいってる。
    このひとの時代はいつなんだろう。レトロ調と現代語が混ざっているので、配分や選択狭めると雰囲気がもっと濃くなるかなと。

  3. 『蜜のあわれ』に出てくる真木よう子を思い出しました。薄幸の、それでいて微かな思いを持つ女、といったイメージでしょうか。
    ただこのレトロな言葉とブログの形式のミスマッチが、しょうがないのだけれど残念で悔やまれます。この文章は是非朗読されるべきだと感じます。

  4. 毎回思ってはいたのですが、私にはこの雰囲気の文章はハマらないんですよね。単純に古めかしいのあんまり好きじゃなくて。ただ、曲をかけながらこの文章を読むとより一層暗い雰囲気が醸し出されて良いと思いました。

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