匂いの夏休み/夏/ちきん

朝6時、窓を開けた瞬間ぶわっとラジオ体操のときの匂いが入ってきたから、びっくりした。もう10年も前のことでしょう。はみがきカレンダーを夏休み最終日に全部青く塗り潰したことなんかを思い出して、無駄に健やかな気持ちになる。「曲」は当然そうなのだけど、匂いも記憶を蘇らせると思う。音楽は懐かしがって繰り返し聴いているうちに、今現在のものになってしまうけど、匂いは意図して再現することが難しいから、不意打ちで襲ってきて、特に効果的だ。母は、最近だいぶ久しぶりにハイボールを飲んで、その香りを吸い込んだ瞬間、若い頃都会で寝ずに遊びまわっていたときの景色が、目の前にばっと広がったと話していた。大量のダンボールの匂いに包まれれば、文化祭のことを思い出すし、電車の中で、どこからともなく好きだった人の匂いがしてくると、思わずきょろきょろしてしまう。

高校生の夏休み、課外授業に行くフリをして家を出て、駅のトイレで制服から私服に着替え、福島県を横断して好きな人の出る野球の試合を応援しに行き、ちょうど授業が終わる頃には帰ってきてまた制服に着替え、何事もなかったように家に帰ったことを思い出した。相手にも知らせずに突然1人で行ったので、ただのストーカー黒歴史なのだが、今なら少しは愛おしく思える。日焼け止めも帽子も何も持たずに行ったので、ものすごい日焼けをして、特に一番陽が当たり続けていた右肩には、大量の水ぶくれが密集するようにでき、寝ている間に潰れて、朝Tシャツがじっとりしているほどだった。痛かった。タクシーから降り立った太陽と草の匂いも、人のいない駅のホームも、肩の火傷を見られないように一人で早めに着替えに行った体育館の更衣室のカビ臭さも、うっすら覚えている。

そんな思い出も、ラジオ体操も、誰の人生にも起こり得るちょっとしたイベントに過ぎないのだけど、匂いをきっかけに思い出した懐かしさや愛しさは、昔こんなことがあったんだ~と言葉で説明して事足りるものではなくて、本当に生きた時間の感覚として蘇ってくるからつらくなる。曲なら、同じ世代はみんなその頃だいたい同じものを聴いていて、それぞれに何らかの思い出があるとか、初めて聴いたとしても、せめて、いい曲だね青春だねと、かろうじて共有することができる。だけど、匂いによって、ある過去に立ち戻らされるのは自分1人だけで、隣の人がどこにタイムスリップしているかも計り知れないし、ほんとうに、自分の過去を思い出すのは自分しかいないんだなという当たり前のことに気付かされて寂しくなる。

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「匂いの夏休み/夏/ちきん」への4件のフィードバック

  1. 実話に基づいて話が展開されていたので、体験を共有できないながらもそういうことあるなぁと思わされました。その寂しさは刹那的なものなので、気持ちを固定してくれたというか、明確にしてくれた様な気がして嬉しくなります。
    語り口が長文でつらつらと流れていくので、脳内の言葉をそのまま書き写した印象を受け、読んでいて心地よかったです。

  2. 文章にもあるように、匂いに関して言えば、本当にいろいろなことを喚起させられるなと、改めて気づかされました。特に夏ってなんかむわっとした独特な匂いがありますよね。
    でも匂いで何かを思い出すことはあっても、全く同じ状況にタイムスリップは当然できないわけで、どこか懐かしくもあり、新鮮な気持ちもあり……。なんとも言えない気分になります。

  3. ちきんさんの文章はもう完成されているなと読むたびに思う。自分で読む本を選ぶ時は過去を書いたものや情景描写を省いたものを選ぶことはあまりないのだが、リズムが良くて読んでいて心地がよいなといつも思う。自分にはかけない形態だろうと思うと、少々嫉妬する。
    一つ一つのエピソードは小さく、たとえ経験したことがないとしてもどこか身に覚えがあるような、どこか共感可能な温度があって、いいなあと思う。

  4. 単純にエピソードが好きです。課外授業のフリをしてのところが読んでてほっこりとしました。匂いって本当に記憶に直結してますよね。思い入れの深い匂いが突然すると、急に過去に引き戻されてなんともいえない感じになります。

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