夕方が見えない/夕方/仄塵

幻なんかじゃない 人生は夢じゃない
僕たちははっきりと生きているんだ

夕方と聞いて、THE BLUE HEARTSさんの「夕暮れ」が真っ先に浮かんできた。何度もこんな不甲斐ない文章に登場してもらって申し訳ないと思っている。先日好きなアーティスト二組も出るコンサートに行こうとしていたが、なんとチケット代払うなら服を買いたいと思えてきたのでチケットを買わなかった。ライブを最重要視する!と彼らは常に唱えているが、別に行きたくないという気持ちは、臨場感やスターを生で見る小さな喜びじゃ補完しきれない何かの不完全がその音楽にあるからなんじゃないかと考えた。レコードの発明やイヤホンジャックの行方不明は決していい音楽を殺したりはしない、という話。

脱線してしまったが、ブルハを最初に引用したのは、夕日から幻や切ないを感じたのではなく、熱烈な、確かなものを見出した彼らの凄さを覚えたから。もちろん雨上がりの夕焼けを網戸越しに見るときや、日の当たらない私の北西向きのアパートに夕日が差し込むときは感動するけど。パッとしない午後1時26分や眠りにつく深夜2時42分と何の変わりもない何十分を括って唯美や幻滅の刻印を打ち、その切なく美しくたる情緒を自分は感じ取れるのだと人間の傲慢さを向き出しにするのは難ありである。ということで夕方の英名を正すべく、「夕方は存在しない」という状況に落ちる人のことを少し考えてみようじゃないか。

まず睡眠障害の人はどうだ。眠れる森の美女のごとく、午後3時は必ず眠り、7時まで起きないという人は。真夜中の時間は自由でリラックスできると主張する人の中には、夜遅くまで起きていられない人はいない。眠りつくときは、時間が過ぎて行くことも知らず、その存在の把握しづらさがイメージや特殊な感情の結成を阻む。よって夕方は必ず寝ってしまう人は夕方と幻の結びつきが分からない。

もしくは生まれてからずっと防空壕で暮らしている人。沖縄戦争の時に山の洞窟で生まれた赤ちゃん。彼らは眠らないというか寝ちゃいけない。太陽光以外の光源が生活を支えてくれるからたとえ赤ちゃんでも防空壕野菜のようにのびのびと育てていけるだろう。しかし彼らの世界に夕方はない。時計がないなら太陽を見ればいいという知恵はあるが、太陽がないなら時間自体はまだ必要なのか。しかし夕方を毎日迎えては送り出すごく普通の我々は語る資格もない。

感情のない、夕方の哀愁を感じ取れない人は一番惨めである。「世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、俺の心には何の感動も湧いてこない。もはや俺は人間ではないのだ」とロボトミー手術を受けた桜庭章司は言う。感情を失うと文化によってコーティングされたこの世界にいる権利はまるで奪われたようだ。感動や哀愁も、過剰になったらヒステリーと診断され、また正常人のカテゴリから排除される。

時間のような流れを止めず、少なくとも我々のいる世界には客観的に存在しているものでさえ、時にはその姿を消す。夕日に向かってそのゾッとする感じは喜びなのか悲しみなのかも分からないのなら、その感情の実在性が問われても仕方がない。私もあの真っ赤な空を見て何らかの力をもらいたいが、力は何かも忘れてしまった。

0 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 50 votes, average: 0.00 out of 5 (0 投票, 平均点: 0.00,  総合点:0  |  
投票する為にはユーザ登録する必要があります。
Loading...

「夕方が見えない/夕方/仄塵」への2件のフィードバック

  1. 元からないという事と失ってしまったという事は別物ではないでしょうか。文章は量の割には読みやすかったです

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。