つまらない男/夕方/五目いなり

   大切だと思っていたなにかを失う手筈というのは、もっと多いものだと思っていた。
「あなた、ツマラナイ男ね」
男と女の縁など、手品の種を見抜いた様な得意げな声音一つで壊れるものだ。
「三年も付き合っておいて今更何を」と言いかけた口は、もごもとご小さく言葉を噛みつけるだけで開かない。彼女は大事にしていた宝石が実はただの石ころだったのだと知ったのだと笑いながら、仔犬の様なまんまるの双眸を頭上に落ちる太陽の様に爛々と輝かせる。「あなたは石ころだったのよ」と言った彼女の薬指には、成程、立派なダイヤモンドの載った指輪が光っていた。もちろん、おれにはそれを送った覚えなど、ある訳もない。
残酷な程に澄んだ瞳の正体に、一体何の理由が在って今の今まで気が付くことが出来なかったのだろう。考えていると、四つ下の恋人は暮れはじめた陽に、既に背中を向けていた。最後にちらりと覗かせた横顔は何故か勝ち誇った表情を湛えていて、そのつんと上を向いた形の良い唇に、傷つく間も、或いは感情を失って見せるだけの余裕もなく打ちのめされて、おれは恋人を失った。
そうかおれが悪かったのか、といつの日からかぱったり途絶えたみずみずしいことばの行方を今更になって知ったとしても、何の役にも立ちはしない。びゅう、びゅおう、と風の音だけが、乱雑に立ち並ぶビルの隙間を縫う様に吹き荒れて、空気の鋭さに瞳の内に涙が滲んだ。下瞼の上にぽてりと乗った水滴が、外の景色を幾重にも反射して、沈みゆく陽の光が悪戯に目を突き刺している。少しずつ青い空に滲むように広がっていく橙色は、中途半端に濁っているようにしか見えなかった。
夕焼けなんて、そんなもの。まるで熟れ過ぎて腐ったパパイヤみたいな色じゃないか。
夕日はその美しさも、おれには欠片も抱かせない。たぶん、「三年も付き合っていて、あなた何も変わらないのね」と言われてしまう所以の一つは、そういうところなのだろう。
熟れ過ぎたパパイヤなんて、本当は見たこともなかった。きっと恐ろしく甘ったるい臭いを撒き散すに違いない。けれどもパパイヤという言葉の愉快な音がおかしくて、口の中で二度、三度、おれはパパイヤを噛み潰す。
パパイヤ、パパイヤ。
一体パパイヤの名付け親は、何を思ってこんな間抜けな名前を付けたのだろう。
パパイヤ、パパイヤ。
おれにもこのパパイヤの、陽気さの一つでもあれば、つまらなくは無かったのではないだろうか。
「パパイヤ」
気が付けば、声に出していたらしかった。あっ、と口元に手を添える。独り言を言ってしまった恥ずかしさが体中の芯からこみあげて唇をかむと、隣でふくく、と声がした。
「なんですの、その、パパイヤというのは」
振り向くと、ついさっきまで誰もいなかった筈の空間に一人、男がぽつんと立っていた。ふくく、と奇妙な声はどうやら笑い声であったようで、煌びやかな刺繍がなされた振袖の袖口で、恭しく口元を隠している。薄藤色の長い髪が夕日の橙を細やかに拾っていって、金色にきらりと光った。
その浮世離れした風体に、今度は口がぽかんと開く。気が付けば灰色のビル街はいつの間にかに赤提灯をぶら下げた古い街並みに変わっていた。橙色の空だけが、切り取られた様にそっくりそのまま嵌め込まれていている。男はいつまでも波打たない空を背に、一人だけ先に夜が来たみたいに浮き出していた。
「パパイヤ」
びっくりして、男の言葉を繰り返していた。どうにも間抜けなパパイヤと言う音は、どうやら目の前の派手な男にも感染してしまったらしく、男はどこかぎこちなく「パパイヤ」と、もう一度呟いた。紅に縁取られた小さな唇がぽかんと閉じたり開いたりする様は、何処までも間抜けに見えて、変わってしまった景色も、目の前の奇妙な男の存在も、全て忘れておれは笑った。男も、笑った。
「ねえ、私の事、買って下さらない?」
ふつ、と途切れた笑い声のその後に、男が腫れぼったい流し目でこちらに視線を投げかける。得体のしれない男と共に会話をしていると言うのに恐ろしさはどこかへ忘れてしまった様にちっともなく、おれは男の言葉を鼻先であしらった。
「阿保な。アンタ、男だろうに」
「なあんだい、手前も随分、つまらない男だねエ」
かしゅ、と煙管に火をつけて、男が愛想笑いを引っ込めてぷかりと煙を吐き出した。上等な振袖に隠されていた無骨な拳が、細やかな模様の入った煙管の羅宇を、みっと握る。つまらん、つまらんなあ、と、耽美な言葉遣いすら、男はかなぐり捨てたようだった。
ツマラナイ、という音の響きに一瞬だけどきりと心臓が跳ねあがり、嵌め殺しの夕焼けに目をやった。男は紫煙をくゆらせながら、かぷ、かぷり、とうまそうに夕頃の空気を食んでいる。赤っぽい煙を吸った男の髪は、色濃く、夜の紫に染まっていた。
「アンタ、バケモノか」
「うるさいね。青二才の朴念仁に、答える義理なぞありゃあせんよ」
かぷ、かぷり。煙管を咥えた唇から、ぽくん、ぽくんと煙が漏れる。ただ赤いだけの夕空にたわんだ煙が浮かぶ様を、男は感慨深くも無さそうに、つまらなそうな顔でひたすらに眺めていた。
「なあ、アンタ」
「なんだい、坊や」
「夕空は、綺麗かい」
この男もつまらない男ならば幾分か気も晴れるだろうと、変わり映えのない夕空を眺めながら問うてみた。男は伏し目で下からおれを舐めあげ、「馬鹿だねえ」と笑った。
「夕焼けを有り難がるのは、太陽を惜しむ奴だけさ」
かぷ、かぷり。煙を吐き出す紅色の唇がくゆ、と歪む。その様に見とれていると、視界が紫色に染まりきり、頬面に当たる熱っぽい吐息に「そうかいうものか」と思ってしまった頃合いに、ぴりりりり。背広のかくしに仕舞い込まれた携帯電話が鳴きだした。
「アラ、お前さん、呼んでいるね」
ぴりり、ぴりり、と携帯電話の着信音を飴玉を転がす様に口にして、男の吐息がふっと離れる。慌てて携帯電話を取り出すと、それは先程別れた元恋人の番号で、いちもにもなく、おれは通話のボタンを押していた。
『おかけになった電話は、お客様のご都合により、お繋ぎできません』
ツー、ツー。掛けた覚えのない電話はぷつりと途切れて、虚しい機会音だけが夕空を少し過ぎた紫色の街の中にこだました。辺りを照らすスマートフォンの液晶画面は繋がらなかった恋人宛ての電話を発信していたその証拠を、白い光で照らしていた。
なんだったんだ。濁った機械のつうつうという合成音に、ふくく、と声が聞こえたが、振り返れば、男の姿はどこにもなくて、辺りを見れば、街はいつの間にかにいつも通りの寂れたビル街に戻っていた。
ためしにもう一度、適当な番号に電話をかけてみたが、プルルルル、と安っぽい機会音が耳に痛くて、おれは電話を切ってやった。パパイヤ、と何の気なしに呟くと、沈みかけた夕日が笑った様に、赤色と紫色を携えて、ふくく、と揺れた。

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「つまらない男/夕方/五目いなり」への4件のフィードバック

  1. とても面白かったです。涙に景色が移り込む場面の表現に心を奪われました。今まで縦読みの投稿は面倒で読んでいなかったのですが今回読んでみて良かったです。ファンタジー的な描写が始まったときは私好みではないかなと思いましたが、読み進めると引き込まれました。男の言葉遣いも初めは違和感がありましたがキャラクターの描写が上手で魅力的だったのでしっくりきました。

  2. 風の擬音語がとても気に入りました。
    関係ないですけど、パパイヤ鈴木がすごく頭に浮かんできました。

  3. 情景描写はさすがの一言ですね。パパイヤというワードのチョイスが絶妙です。僕もパパイヤって実際見たことないかも。

  4. 「みずみずしいことば」、「一人だけ先に夜がきたみたいに」などの表現が、雰囲気があってとてもいいなと思いました。

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