心地好い風/夕方/きりん

日本料理店、山路。今夜もちらほらと暖簾を揺らして、お客がすいこまれてゆく。

「ようこそ、いらっしゃいませ」
日も暮れた夕食どき、18時に現れたのは中高年のカップル。白髪の男性が連れのために暖簾を押さえて、先に通した。最近旦那は隠居を始め、奥方はエアロビクスを極めつつある。2人でこの店に来るのは記念日や、気がむいた時の偶の贅沢。予約をとって、ちょっとしたデートを楽しむ。
18時半、女性の二人連れ。久々に二人でゆっくりとごはんを食べようという話になり、なら私がいつもランチで行く和食に、夜行ってみようか。ということらしい。食事とお喋りへの期待に笑顔がこぼれる。
仕事とプライベートの中間、背広姿の男性らが暖簾をくぐったのは19時を過ぎたころ。内の一人は店の常連だ。今や昔の話と言われようとも、商談相手と美味しいもの、美味しいお酒は欠かせない。勤め先が近いこともあり、ここに店が出来たころからもう随分長く通い続けている。
出汁やお肉、お抹茶の香りに満ちた穏やかな空間の窓で、巨大観覧車の時計は静かに時を刻んでいく。

「来月いっぱいでお暇をいただきたいと思います」
「お暇とは?」
「職を辞するということです」

辞めるのは苦手だ。小さい頃の習い事、塾、サークル。体のどこかに、終身雇用制とか、永遠の忠誠、とかが染みついているのだろうか。相手が死ぬまで死なば諸共みたいな。自分の名字からすると、多分ご先祖は農民なはずだが。

「理由は?」
「資格の勉強を始めましたので、学業に専念したいと思いまして。また再来月には学校の研修で約3週間、シフトに穴をあけてしまいます」

店長にはあっさり承諾され、これからもよろしくと挨拶をしてシフトを上がった。和装ロッカールームで足袋を脱ぎながら、一人ほくそ笑む。うん、辞めて欲しそうだったもの。こちらの要領が悪過ぎて。
料理の蓋をつけ忘れる。注文の変更を伝え忘れる。先輩に注意されて慌てて直し、そこまで目をつけられている自分とか、そこまで使えない自分とかに対して今さらながらに失望。周りの人にとっては、なんて言うまでもない。
年中18度設定の空調だけが気持ちをとりなすかのようにゴウンゴウンと奏で続ける。ロッカーの隣に設置された壁面鏡から、なんとなく目を背ける自分がいる。
汗だくで重い制服を引っぺがして、髪を解き、さぁ帰ろう。

とっくに日の暮れ切った22時の帰り道は、なぜか夕方のように優しい、穏やかな風が吹いているような気がした。

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「心地好い風/夕方/きりん」への4件のフィードバック

  1. 和な感じは好きだし、状況設定としてはいいと思います。しかし、「辞めるのは苦手だ」の段落でちょっと堅苦しい言葉が多かったりしてせっかくの設定を生かし切れていないように感じられました。
    後細かいところだけど、自分の苗字って本名のことなんだと思うけどそれだと読者に伝わりづらいです。無くてもいい部分だとは思うけど、わざわざ表現を入れる(入れたい)のだとしたら、店長との会話の中で偽名でも出したりする工夫が必要じゃないでしょうか。

  2. 方向性が掴めなかったです。描写から感じたのは割とマイナス方向の感情だったのに最後は晴れやかな感じになっていて??でした。やめることに後ろ向きなのか前向きなのか、ひねくれているようでひねくれきれない、それを狙ったのかわからないけど、ぼんやりとした印象です。

  3. 時系列的に物語が進んでいく感じと最後の一文はいいなと思いました。こういう作品って最後の一文までの文章の配列が大事かな(あくまでもぼく個人のイメージです、、)と思うんですけど、ただなんとなく文を繋いでる感じがして、何様って感じですがちょっと退屈でした。

  4. 自分の上手くいかない日常とは対照的に、夕方の風はいつも優しく吹いているというような表現が良いと思いました。

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