赤の世界/夕方/ヒロ

 太陽が地平線に沈んでいく。いや、昇っているのだろうか。方角なんてわからないのでどっちなのかはわからない。でも、僕はそれが直感で夕焼けなのだと思った。理由はわからない。ただこれは夕焼けなのだと心のどこかが感じていた。

 空が橙色に染め上げられている。空全体が燃え上がっているようで、この空がいつもは青いだなんて信じられなくなる。ふと昔に弟が夕焼けを見て、太陽が殺される前に断末魔をあげているみたいだ、なんて言っていたことを思い出す。空が赤くなるのは太陽の血なんだと自信満々に言っていた。あのころ弟は中学生だった。その頃の弟を家族全員で見守っていたことは今でも我が家の笑い話の一つである。この間に実家に帰ったときにこの話をされた弟の恥ずかしそうな顔も思い出して少し笑う。

「ああ、ほんとにきれいな夕焼けだな……」

 駅を出て、すぐにあったベンチに座って現実から逃避するように呟いた。

 僕は夕日をずっと眺めていた。時計を見る。夕日を眺め始めてから三時間以上が経っていた。それなのに太陽は今も沈み続けている。くだらないことを考えて逃避していないと頭がおかしくなりそうだった。
 通勤途中の電車の中で寝過ごしてしまって、慌てて電車から降りて駅から出たらこの場所だった。夕焼けが続く不思議な場所。駅の中に戻ろうとしても何故か改札を通ることができない。駅員は切符がなければ電車には乗れませんとしか話さない。スマホは圏外とだけ表示され、GPSも機能しなかった。
 駅の周りにはただただ地平線が広がっている。駅以外に近くにあるのは今座っているベンチだけ。嫌でも目に入る夕焼けだけが真っ赤に輝いている。
「会社、完全に遅刻だよな。また休日出勤して遅れを取り戻さないとまずいよな」
 こんなときにまで仕事のことが頭に浮かんでくる自分に呆れかえる。それ以外に考えなきゃいけないことはないだろうかと考えてみても何も浮かばない。頭に浮かんでくるのは自分の引継ぎは大丈夫なのかとか、明日までに片づけなくちゃいけない案件があったはずだとか仕事のことばかりだった。
 時計をまた見る。先ほど時計を見た時から二時間ぐらいが経っている。まだ太陽は沈んでいた。周りに人の気配はなく、駅は沈まりかえっていた。ここには僕とベンチと駅と静寂と夕焼けだけが存在していた。
 僕はここで死ぬのだろうか。それでもいいかという気がしてくる。どうせ元の場所に戻っても仕事が待っているだけだ。
 何時間も経っているはずなのに何故かお腹は空かなかった。眠気も感じない。僕にできることは考えることと夕焼けを見つめることだけだった。

 夕焼けを見つめ続ける中で仕事以外の昔のことを思い出した。
 夢があった。就職活動でそれどころじゃなくなった。
 やりたいことがあった。仕事の毎日でそれも思い出せなくなった。
 好きな人がいた。彼女をデートに誘う時間も取れなくて、誘うこともできないまま、会うこともなくなった。
 生き方に憧れていた人がいた。いつしか自分より仕事ができないつまらない人にしか思えなくなった。

 それらは毎日の忙しさでいつしか考えることも思い出すこともなくなっていたことばかりだった。
 
「嫌だ……。僕はまだ生きていたい。やりたいことが、会いたい人がいるんだ」
 思わずそんな言葉が口から零れた。夕焼けが滲んで見える。気づけば涙が流れていた。このままここに居続けるなんて嫌だ。僕はまだあの場所でやり残したことがたくさんあるんだ。
 そう思って泣いているといつのまにか僕の横に一人の老人が座っていた。その人は優し気な表情で夕焼けを見つめていた。
「帰りたくなったのですかな?」
 老人がぽつりと僕に尋ねた。とても安心する声だと感じた。僕はそれにはっきりと答える。
「はい。やりたいことが、夢があることを思い出したんです」
 老人は僕の答えにゆっくりと頷いて、一枚の切符を取り出す。
「これを使って帰りなさい」
「切符? そういえば切符がいるって駅員の人が言ってたっけ。えっと、ありがとうございます。僕、精一杯やってみますね」
 その言葉に老人はにっこりと笑った。
 僕は老人に深く礼をして、夕焼けに背を向けて歩き出す。夕日が背中を押してくれている気がした。
 もらった切符を使って改札を通る。電車は僕が乗ってきてからずっと停まったままだった。
 電車に乗り込む直前に老人の声が聞こえた。
「ここは明日など欲しくないと人生に迷い、疲れ果てた人々が行きつく駅。あなたが二度とここに来ないことを祈ってますよ」
「はい!」
 僕は振り向くことなく電車に乗った。座席からベンチに目をやったが老人の姿はもうなく、ただ夕日だけが真っ赤に燃えていた。
 

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「赤の世界/夕方/ヒロ」への5件のフィードバック

  1. 途中から一気に小説の世界に連れ込まれた感覚がしました。最後まで引き込まれて読みました。

  2. 綺麗にまとまったな、という印象。夕日が沈み続けるっていうのはなんだか怖くて、先には絶望しか残ってないんじゃないかとワクワクして読んだので、少し拍子抜けだった。こういうエンドが好きな人もいると思うので、好みの問題だと思う。いや、でもそれにしても、最後のはい!の!は必要かなあ、流れがそこでプッツリ切れてしまったような気がする。軽々しくなってしまったというか。

  3. 最後のおじいさんの台詞で、一日の終わり、明日の訪れを思い起こさせるのが「夕方」なのだと、改めて思いました。
    こう、黄昏るまでの落とし方が、もう少しガイドがあるとよかったかもしれません。台詞も、もう少し口語体に近くてもよかったかなと。(三水)

  4. 情景の描写が丁寧で引き込まれました。未来に繋がる時間としての夕方が描かれているのが個人的には好きです。読後感がすっきりしていていいなと思います。

  5. 「地平線」という言葉は、少し軽く置いてあるような気がしました。ぐっと入りこめなかったです。

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