亡きマリーへの餞け/食べたい/ほのほ

瞼の裏に朱色がぽたりと一滴、じわりと滲んだ。朝日が昇ってきたのだ。ぎゅいるるる。程なくして雄鶏が鳴き始める。ばっちり歪んだ鳴き声は下手くそなバイオリンよりも耳に痛い。朝を知らせる鳥の声を、どうして神様は、せめてもう少し綺麗に作らなかったのだろうか。憂鬱は考えるほどに膨らむ。そのもやを振り払うように、マリーはベッドから体を起こした。瞼は閉じたまま、うんと伸びをして、澄んだ軽い空気を朝日もろとも胸いっぱいに吸いこむ。

いつもと同じ森の香り、鼻をくすぐるような冷たさ…ではなかった。その朝マリーの肺へと流れこんだのは、彼女の言葉を借りるなら、幸福そのものだった。香ばしくて甘い、肺の中でもくもくと膨らむような、優しい香り。感動のあまり閉じていた目がぱっと見開かれたのも一瞬、次の瞬間、気づくと彼女は涙を流していた。いつもの雄鶏への恨み節はとうに何処かへ消え去り、一転、踊り出したくなるような高揚感だけが彼女を包みこんだ。

この幸福の正体はなんだろうか、とマリーは思った。窓から外を見やると、果たして森の中の見慣れぬ小屋、その煙突から香りは立ち上っていた。

給仕に香りについて尋ねると、それはパンの香りだろうと答えた。パン。初めての響きだった。パンとは何か、彼女は再び尋ねた。小麦を練って焼き上げるものだと、給仕は答えた。しばらくして、けれども低俗な食べ物だから、彼女には知る必要もない、とも。マリーはがぜんパンとやらに興味が湧いた。しょせん幼気な少女である、するなと言われたことは、余計にしたくなる年頃なのだ。

朝食を食べ終えたマリーは部屋に戻った。朝食のケーキは彼女の大好物だったが、パンとやらが気になって、その日はまったく無味乾燥。そんなことは初めてだった。パン。口に出しただけですこしドキドキした。親の決めたどこかの王子などより、よほどパンと結婚したいとすら思った。けれど低俗な食べ物ならば、父や母にねだることはできない。マリーは来る日も来る日も、毎朝ベッドへ遊びにやってくるパンの香りだけを楽しみにして、利口に堅苦しい毎日を過ごした。

しかしある朝、マリーが吸いこんだのは懐かしい森の香りだった。パンではない。言うまでもなく煙突は空っぽだった。マリーは不思議に思ったが、まあそんな日もあるものか、と合点してその日は眠りについた。ところが次の朝も、その次の朝も、パンの香りはしなかった。

これは絶対に何かおかしい。

見に行こう。思い立つや否や、マリーはすごい速さで服を着替えて城を飛び出した。もちろん誰かに見つかればただでは済まない。しかしそれどころではなかった。

「パンはどうしたの。」飛び出した勢いそのままに、部屋から何度も見おろした小屋へ難なくたどり着くと、マリーは思わず叫んだ。

小屋の中にはひとりの男がいた。曰く、小麦の値段が高いせいでパンが作れないのだ、と。マリーは、何不自由ない生活に染まった自らの無知を恥じた。しかし同時に彼女は思索した。何か代わりになるものはないか。小麦が買えないなら。パンが焼けないなら。果たして思い出した。安い小麦で作れるお菓子、朝食の定番。そしてそれは、彼女の大好物でもあった。

 

「パンがないなら、ケーキを食べればいいじゃない。」

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「亡きマリーへの餞け/食べたい/ほのほ」への3件のフィードバック

  1. はあ〜〜!!表現が上手だし、だからと言って無駄にくどくないし、オチもすごいし、やばい、指摘するようなところがない!ごめんなさい、批評しろって言ってんのに、べた褒め!すごい、私には到底かけない文章だな、と思いました。たまにはこういうべた褒めも許してほしい、人の感性ってそういうもんですよね、ピタリと合って、好きだというものには好きと言いたい!私はこの文章がとても好きです。普段何を読んで、普段何を考えたらこんな文章書けるのだろう、それくらいしか思いつくことはありません。

  2. 名前で薄々流れは察せましたが、皮肉が良く効いていていいと思います。安定して思いつくものじゃないだろうけどそういう文章を書いて欲しいなと思いました。
    ただ、オチのある話であれば、最初の憂鬱な文章ははない方がいいかもしれません。

  3. 食べたいというテーマから発展させ、有名な言葉とその背景の想像力と文章力がよかったと思います。パンが食べたくなりました。

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