たたんで、/片づけ/エーオー

 裸足で台所に立ったのは間違いだった。リビングから暖房の熱が流れてくるからいいかと思ったのに、足の裏から伝わるフローリングの冷たさがばかにならない。それでも、動かない。苦行みたいでぴったりだ。湯を沸かしている鍋の熱を頼りに野菜を切っていく。
 人参、玉葱、できたらジャガイモも。実家を出るときに習った牛乳入りのスープが飲みたかった。包丁の扱いにももう慣れた。手ごたえのあるものはいい。形のあるものはいい。この作業は必ず実を結び自分を駆動するエネルギーになるという無駄のなさがいっとう、いい。
 お葬式の準備をしていると、その型の中にかなしみが折りたたまれていくんですよ。
 高校の時に好きだった世界史の教師の言葉が降ってくる。ある日の授業で彼は亡くなった父親の話をしていた。いつもどこか高尚なことを語るけれど言葉選びの品が良く、いやみさが無かった。二十歳になったけれどあの大人に近づけている気はしない。
 刃がまな板を打つ音が乱れた。重ねた橙の短冊がずれている。端をそろえてもう一度。規則正しい音が響きはじめて安心する。型通りの、作業。つまりこれは葬式だ。右足を左足の甲に乗せて体温をとった。折りたたみたい気持ちがある。

***

「瀬尾」
 その名前を呼ぶときわずかに緊張する。さ行で始まり二文字で終わるから、きちんと発音しないと周りの雑音に紛れてしまう。
 成功した。彼女はくるりとこちらの机を振り返る。肩のあたりで内側に丸まった髪がそれに合わせて回転木馬のように旋回した。
「ああ、吉田。お疲れ。もう帰るの」
「いや、図書館で課題やる」
「あれか。でも遂に今週で最後だね」
「それな。やっと解放されるわ」
 瀬尾とは秋学期の授業で一緒になった。少人数制で四週間に一回課題があり、中途脱落者も多かった。
 教室を出て連れ立って歩く。吹き付ける風に顔をしかめた。二月のさなか、今ごろが寒さのピークだろうか。来週からのテストに耐えればもう春休みだから学校には来なくていい。
 瀬尾の悲鳴が後ろに飛ばされた。風にあおられて前に進めなくなる。少し止まって待っていると、彼女は顔にかかった髪の毛を直しながら追いついてきた。
「あー、髪の毛つめたい」
 おかしなことを言う。木枯らしに負けないよう少し声を張った。
「つめたいの?」
「冷たいよ。男子はここまで伸ばさないから分かんないかもしれないけどさ、冬は髪の毛を指に通すと冷たいんだよ」
「あ、それは知らなかったわ。風で冷えるからか」
「そうそう。へんだよね」
「ん?」
「なんかさ、よくあるじゃん。犬とか抱きしめて『生きているから、あったかいんだね』ってやつ。でも私は生きてるのに髪の毛冷たいし」
「そこかよ」
 そっと、彼女の髪の毛を視界の端にとらえた。それは時々つやつやと霜柱のように光って揺れていた。
 ポケットの中で手が身じろいだ。
「まあ、髪の毛って死んだ細胞らしいしな」
「まじでか」
 じゃあ、死んでるもん頭にくっつけて生きてんだね。
 荒んだ鼠色の風景の中で瀬尾の鼻だけが赤く色づいていた。コートから手を出して自分の髪の毛を触ってみる。指先が冷たくてなんにも分からなかった。なんにもならなかった。そのまま手を振って、白い息をはいて瀬尾は去っていった。

「ありがとうございました」
 小教室にまばらに拍手が起こる。じゃんけんで一番負けてトリになった瀬尾の発表がちょうど終わったところだった。窓から見える空は今日も相変わらず寒々としていて、これでこの授業も最後だとあくびを噛み殺しながらぼんやりと考える。
「お疲れ」
「うん、ありがと」
 かたん、と隣で椅子を引く音がした。瀬尾はまだ緊張しているのかしきりに髪を耳にかけている。頭の中でゆるゆると遊ばせていたことどもは、結局それ以上なにも言葉を結んでくれなかった。教授の講評がはじまり反射的にそちらに視線をやる。直前確かに目が、一瞬合ったと思う。
 不意に気持ちが浮上して照れ隠しのようにぱっと首の後ろに手をやった。
 着氷。
 左手の小指の滑りがいやになめらかだと思った。まるでオイルでもひいたかのような、艶やかな生地を裁断するような、裁断。柔らかい何かを裂いている。何か恐ろしい感覚が身体に追いついて息をつめながら隣を見た。
 飛び込んできた真っ白い頬が、内側から光を発してこちらの目を焼かんばかりだった。磨き上げられたスケートリンクにたったひとつエッジの跡。瀬尾の目尻の近くに赤い線が入っていた。血だ。一房垂れた髪の毛がこちらを責めるように揺れた。
「ごめん」
 その場にいた誰もあまり状況がよく分かっていなかった。ようやく、小指の爪で彼女の頬を切ってしまったことに気付き、向こうも指で触って血を確認した。にわかに起こった事件に周りの面々も何事かと気を回し始める。瀬尾は向かいの女子にティッシュと絆創膏をもらいトイレに向かっていった。

「だいじょうぶだよ。きれいに切れてたから跡も残んないよ」
 からっと彼女は笑っていた。ちらちらと髪の毛越しに見える傷跡は、でも言った通りか細くて見えなかった。
「ほんとごめん」
「もういいって。これでチャラ」
 せめてものお詫びにと自販機で買ったココアは、いま瀬尾が手で温めている。もはや何が等価になるのかも分からずこんなことになってしまった。
 時計をそっと見る。次の授業がもうすぐ始まる。教室の分岐点にたどり着いた。瀬尾の方は次がテストらしかった。
 向かい合う形になった。
「じゃ、半年間おつかれ」
「お疲れ。課題ではお世話になりました」
「ほんとだよ。まあ吉田は最後の日にこんなことになったけどね」
「その節は大変申し訳ない」
「冗談だよ」
 瀬尾は少しの間どこかを見つめていた。そして表情を弛緩させゆるゆると小さく笑んだ。
「思い出になった。ばいばい」
 しばらくそこから動くことができなかった。瀬尾は鮮やかな紺色のコートを翻して教室に入っていく。髪の毛がそれを追いかけた。一度だけ、鋭く刃のように光った。

***

 せお、と。最後になる名前を呼ぶと、鍋の下で炎が一瞬ゆらめいた。

 

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「たたんで、/片づけ/エーオー」への2件のフィードバック

  1. 身体感覚などの描写が繊細で、美しく登場人物の心情につながったので巧みだなあと思いました。

    最終段までの文章から主人公はこのあとも瀬尾を引きずり続けそうな気がしたので、あっさり最後の名前が呼ばれたことに少し肩透かしをくらいました。

  2. 豊富なボキャ、繊細な描写に惚れ惚れします。どうやったらそんな文章が自分にも書けるのか………と思い続けて読み終えました。もっとフラットな読者としての視点で読みたいです。出直してきます。

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