死にたいvs生きたい/夢の対決/ノルニル

西洋の静物画のジャンルに、ヴァニタスというものがある。おもに髑髏のモチーフを取り入れるそれらの作品は、不気味でありながらどこか心惹かれるものがあり、美しい。
そもそもヴァニタスとは、ラテン語で「空虚、むなしさ」を指す。つまり描かれるのは人生の儚さや虚しさだ。これは仏教での「色即是空」とよく似ている。

歴史的な背景を踏まえると、根底にあるのは「メメント・モリ(Memento Mori, ラテン語で『死を想え』)」の概念だ。「汝がいつか死することを忘れるな」、そういう意味合いも含んでいる。
西洋のキリスト教に限らず、多くの宗教では死後についての世界観が存在する。仏教では輪廻であり、イスラム教はキリスト教と同じく「審判の日」を有する。
そして、宗教が支配的地位を失った現代でさえ、死はなおも人を惹きつける。

かくいうわたしも、死に憧れた時期があった。救いでないことを知りながらも、頭から離れなかった。
いま、かつての自分と向き合うときだと思う。二度と振り返るべきではないと考えていたが、そうではなかった。だから顔を背けずに、改めて親しいあなたへ、こんにちはを言いたい。

 

「君には無理だよ」と、いわれた。本気で死のうと思ったら魂はんぶんあっちに持っていかれるよと、その人は言った。
わたしは以後、「死にたい」と口にするのをやめ、戦うことを決めた。もう5年ほど前になる。

はじめに、イマジナリー・ホスタイルを脳内に住まわせることにした。フレンドではなく、ホスタイル(敵対者)。
「お前がどんな奴か知っている」というのが彼の口癖で、わたしのやることなすこと考えること、全てを等しく否定してくれた。

自分由来だから当然だが、彼とは利害関係が生まれない。だからその否定はどこかに偏ることなく平等であり切り口もすぱっと鮮やかで、むしろ心地よかった。余裕のない時には、こうだ、と決まっているような、制度化されたシステムがいちばん信用できる。

人間というのは不思議なもので、「早く死ねよ」と言われると、はいはいそうですね、といいながらも、だんだんとそれに甘えだす。「死にたい」と自分で呟く必要はなくなって、かわりにそれは他から与えられるものになった。

やがて時間が経つにつれ、自分から死にたい、と思うことはなくなった。自分のなかから出たはずのものが、完全に切り離されていた。仮想の敵はわたしを救ってくれ、わたしが幾分立ち直ったころには、いつの間にか姿を消していた。

「死にたい」という気持ちは日常が「死」に近いから生まれる。逆に生気を取り戻すと、「生きたい(生きていたい)」という思いが強まった。それも「死にたくない」というのとは少し違う。
いろいろ考えたが、まだ死ぬには早い、むしろ「心残りをなくして死にたい」というのがすなわち「生きたい」ということなのだろう。死は頑張った自分へのご褒美、みたいな。実際には心残りがなくなるなんてことは、おそらく永遠にないのだけど。

 

死は生を意識させ、生は死を意識させる。「死にたい」はいつか生きていたいという気持ちの表れで、「生きたい」というのはいつか死にたいということを予感させる。
おそらく「死にたい」も「生きたい」も抽象的なもので、ふつう生物学的な死と直接結びつくことはない。
強い不満が、苦痛も幸福も全て飲み込んで終わらせる「死」という極限のイメージに漠然と救いを求め、それが憧れに繋がるのではないだろうか。

とはいえ、考えすぎると直接的、現実的な死の方へとのめり込んでしまうこともある。そんな時のために、イマジナリー・ホスタイル、ドMの方にはなおのことおすすめです。いや、ほんと。

あ、ひあかむずざにゅーちゃれんじゃー?紹介を忘れてたけど、第三勢力の「消えたい」派もあったんだった。
死にたい消えたい生きたい、三つ巴の乱闘となるその結末は、まだ誰も知らないみたいです。

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「死にたいvs生きたい/夢の対決/ノルニル」への4件のフィードバック

  1. 生きたいの反対は本当に死にたいなのか、という問題が哲学だとか何かしらのジャンルで取り上げられていたと思う。どちらの願望もお互いに作用し合っているという論は確かにそう思う。

    いつ死んでもいいや
    というフレーズを小説かなんかで見たことがあるが、これほど恐怖を煽ったものはなかった。好きの反対は無関心だというように、生死に執着しなくなった時こそが、一番危険なのかもしれない。

  2. どちらかというと「生きたい」の主張よりも「死にたい」の方に偏っているような気がする。もっとも、どちらも反対の意味を持つ限り、そのどちらかが主体になってしまうのはしょうがないことなのだけれど。

    個人的にも考えてみたけど生きるのも死ぬのもそのもの自体には意味なんてなくて、それを伴う上でその過程が死にたいよりなのか生きたいよりなのかという結果に至るんだなと思った。

  3. 格調高い、理知的な雰囲気ですすむ話でしたが、最後の最後で崩れて、でも少々重たい話が続きましたからいいバランスに思えます。
    文章に対する感想よりも、自分の話で返したくなる文ですね。
    私は第三勢力消えたい派でしたが、諸々要因があって最近は思いません。勿体無い気もしますが。
    ただノルニルさん本人を思い浮かべながら読むと驚きがありました。まずもって、死にたい/行きたいの範疇の外に生きているように見えますから、というか同じような基準を持っていたのかという驚きが。

  4. 「死にたいー」ってよく言っちゃうんですけど、他人が何度も言ってるのを聞くと、「生言ってんじゃないわよ!」って感じでちょっとムッとするもんですね。一昨日気づきました。

    『「死にたい」という気持ちは日常が「死」に近いから生まれる。』というところが気になりました。もうちょっと聞きたいです。

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